私は乱歩同様、他人の影響を受けやすい人間なのか、奥泉光さんの集英社文庫『東京自叙伝』から多大なヒントを得て、まず『江戸川乱歩偽自叙伝』というタイトルを思いつき、そのあといや待てよ『複雑な彼』がいいかなと考え直し、さらにぶれまくって『貼雑乱歩 ① 世に出るまで(仮題、変更予定)』ということになったのですが、『東京自叙伝』の破天荒な語り手たる「私」は一時、漱石の『吾輩は猫である』の猫すなわち語り手「吾輩」であったという設定になっていて、ああ、漱石の猫か、たしか中学のとき旺文社文庫で読んだきりではないか、と思ったので価格ゼロ円のキンドル本をダウンロードして読みました。
内容なんてきれいに忘れていて、かすかに記憶に残っていたのはトチメンボーと蛇飯だけでしたが、作中随所に、といいますか全篇を通じて、中学生ではこの面白さはわからんかったやろな、と痛感されることの連続、余勢を駆ってひきつづきキンドル本『坊っちゃん』をダウンロードしたところです。漱石の探偵嫌いはつとに指摘されているところですが、すでに『吾輩は猫である』の時点でそれが色濃くにじみ出ているのにはいささか驚かされました。
いやいや、それよりもっと驚いたのは、キンドルで全文検索ができることでした。
ちっとも知らなんだのですが、たとえばキンドル本『吾輩は猫である』で「探偵」を検索すると、作中のすべての「探偵」がその前後三行分ほどを打ち連れてずらーっと出てきてくれるわけです。
むろん、その三行ほどをタップすると、一瞬の躊躇もなく当該ページにすっ飛んでってくれます。
漱石に寄り道ばかりもしてられませんから『貼雑乱歩 ① 世に出るまで(仮題、変更予定)』に戻りますと、書き出しを変更することにいたしました。
祖父の話から始まるのではどうもまだるっこしい。
いきなりこう出ることにいたしました。
彼は明治二十七年(一八九四)に生まれ、二冊の自伝を残した。
なんか、太宰治みたいだな、と思います。
『貼雑乱歩 ① 世に出るまで(仮題、変更予定)』では結局、「彼」や幼年期から青年期までを題材にした自伝的随筆、さらには『奇譚』、もとより『探偵小説四十年』あたりを貼雑して、とどのつまり、帰するところ、乱歩が探偵小説を見誤っていった過程、乱歩風にいえば経路ですが、それを浮き彫りにすることになるのではないかと思います。
「帝国少年新聞の内容!! 内容!!!」の時点では、乱歩はいまだ探偵小説に開眼しておらず、少年時代の読書の延長線上に、複数の筆名をつかいわけながら、少年小説、冒険小説、滑稽小説、お伽噺をものそうとしていたことがわかりました。話は横道にそれますが、冒険小説「黄色黒手団」の作者として紹介されている漱岩は、むろん漱石を踏まえた筆名のはずで、だとすれば中学時代の乱歩は漱石に傾倒していたのかもしれません。
「孤島の鬼」の語り手の金之助という名前は漱石の本名を借用したのではないか、とたしか戸川安宣さんが推察していらっしゃったことでもありますし。
漱石がらみでさらに横道を突き進むならば、大正2年3月、「帝国少年新聞」関連の印刷物を仕上げたあと、同月27日に乱歩は牛込区喜久井町五番地に転居します。
▼名張まちなかブログ:江戸川乱歩年譜集成 > 大正2年●1913
この喜久井町こそは漱石生誕の地でした。
▼ウィキペディア:喜久井町
それがどうした、と尋ねられると困りますけど。
『貼雑乱歩 ① 世に出るまで(仮題、変更予定)』のために、ということになるのかどうか、「帝国少年新聞」関連の印刷物をテキストに起こしました。
「帝国少年新聞」は大正2年に乱歩が企画し、企画倒れを余儀なくされた新聞です。▼名張まちなかブログ:江戸川乱歩年譜集成 > 大正2年●1913
「帝国少年新聞の内容!! 内容!!!」の一部を引きます。
□主張□
これは本紙の眼目とするところで毎号少年諸君の為に気焔を掲げる執筆者は主筆平井洪濤氏でその熱烈なる文章は必ず少年諸君の歓迎を受けるであらう。
□通信□
本紙第二面の殆と全部を時事通信に費し各記者が全力を注いで懇切に社会の形勢を報導する。
□学術談話□
現今は科学全盛の時代である大は宇宙天体の研究から少は極めて微細なる動植物の観察に至るまで悉く網羅したのが学術談話欄である。
○少年小説希望○
飽くまで希望に向つて猛進する一少年が百折不撓遂に目的を達する迄の運命を現はしたもので或は強賊に捕へられ或は化物屋敷に生活し或は空中の人となり或る時は地下の人となる千変万化の活小説早稲田文科大学生笹舟生の傑作である。
○冒険小説黄色黒手団○
無名の志士漱岩氏の空想で五名の熱血男児が国家の為に身命を賭して敵国に入り不可思議の手段を弄してその滅亡を計るといふ筋最新科学を応用せる大規模の長篇小説である文章の壮大構想の奇絶思はず快哉を叫ばしむ
△滑稽小説仙骨▽
永らく山中で生活して居つた仙人不図浮世が恋しくなり小学時代の友人を訪問して世界の進歩に驚き種々の滑稽を演じるといふ筋一読お臍が宿がえする事受合ひなり。
△お伽噺不死王国▽
小さい弟妹に読んで聞かせるに最も適当な面白いお噺である
乱歩はいまだポーもドイルも発見していませんでした。
しかし、本当に、何を書けばいいんだか、いまだによくわからないんですけど、「彼」と『探偵小説四十年』という二冊の自伝をどう捌くか、どうやっつけるか、どう活かすか、みたいなことがポイントになるとは思います。
さらになお恐ろしいことに、乱歩は自伝的随筆もたくさん書いてます。ですから、『貼雑乱歩(仮題、変更予定)』は、「二銭銅貨」で世に出るまで、みたいなことでいいのではないかと思えてきました。
まず最初に、「彼」をやっつける。
アンドレ・ジードの自伝と木々高太郎の自序を並べて、そのあとに「彼」をもってくる。
これで、昭和8年刊の堀口大學訳『一粒の麦もし死なずば』、昭和11年7月刊の版画荘版『人生の阿呆』、昭和11年12月に連載が始まった「彼」、という流れをたどることができます。
で、「彼」はとりあえず、「1」を全文、引用しておく。
で、なんだかいろいろ書く。
幼年期、少年期、中学時代、大学時代、職業転々時代。
で、乱歩の文章と乱歩以外の書き手の文章、あれこれたらたら貼雑がつづいて、最後は突然ですます体になり、
──江戸川乱歩は大正十二年、「新青年」に「二銭銅貨」を発表してデビューしました。
という文章でおしまいになる。
この文章、じつはキンドル本『涙香、「新青年」、乱歩』の書き出しですから、つづきはキンドル本でお読みください、みたいな展開にできたら都合がいいんですけど、いくらなんでもそんな真似はなあ。
『貼雑乱歩(仮題、変更予定)』のための引用集。
創元推理文庫版『人生の阿呆』から、文庫本で十ページもある木々高太郎の「自序」。冒頭から引きます。
自分の作品に、自分で序を書くと言うのは、作者の足りないところを先きに弁護もし、註解もするようで、何となく好ましくないのであるが、この作には、そうする必要があり、又、意味もあると感ずるために、それをする。
この作の作者は、巷間に、医学博士であるとか、或いは大学教授であるとか、種々なる噂を生んでいると聞く。そして、或時は、そのためにだけ、この作者の作品が価値あるように、言いふらされていると聞く。
作者は、この作を提出するに当って、先ず、それを、訂正して貰い度いのである。この作の作者は、少しも医学博士ではない。又、少しも大学教授なぞでもない。否、よし、彼が、そうであったにしても、彼はそのような風袋 の故に、自分の作品を評価さるることなきを、切に、希望する。彼は唯生れたるままの彼として、一介の作家として、評価もされ、蔑視もされ度いと、切に願う。何故ならば、実際に、彼はそうなのであるから。
彼は、日本の下層階級の、普通の家に生れた。そして、彼の場合には、実際は曾祖母なのであったが、一切の条件が、ほかの家での祖母に相当したから、彼も亦、祖母と考えていた、その祖母に、甘やかされて育った、平凡な、田舎生れの子であった。
祖母に育てられた長男は、やくざである、意気地なしである、とは一般に言われていることであるし、全くその通りであった。彼も亦、やくざにせられ、蔭では、馬鹿だの意気地なしだのと言われて、大きくなった。少年時代は、両親、親族一同が、彼の文学への僅かな芽生えを、憎悪し、嫌忌 し、悉 く摘み去ろうとした。而 も、それは可なり苛酷に。──その時代は、文学などと言うものは、子供を悪るくすることより外に、能なきもので、世をあげて、蛇蝎 の如く忌み、圧迫す可 きものであるとの、考えが、この国の親達を支配していたからで、まことに止むを得ぬことでもあった。
祖母は、文学も何も、皆目 わからぬ人であったが、不思議にも、孫のすることは一々善意に解釈した。作者は、此処 で、不思議にもと言う。それは、不思議以外のものではない。世の、どの子供よりも、劣っていればと言って、少しも勝 れてはいなかった、彼の、頭の先から爪の先まで、祖母は善く解釈した。或る時は、彼自身、余りに見当違いな、善意の解釈に、祖母を嗤 いもした。
それは、唯々、盲目の愛と言うより外はない。動物愛などよりも、更らにはるかに、盲目の愛であった。
斯うして、祖母に甘やかされて育てられ、そして、青年時代を放縦無頼に過ごさなかったとすれば、それは、自然法則に反する。彼も、自然法則には、反しなかった。僅かに、独逸 語と露西亜 語とを少しく学び、それ等の言葉で書かれた医学書を、少しく興味を持って読んだ外 に、彼の青年時代は、他に迷惑をかける外に、何も為さなかった、と言っていい。そうして、既に、相当年をとって了 う迄、彼は何事も為さず、ますます貧乏となる生活を、所有するだけで あった。
彼は、斯くの如く、つまらぬ人間であった。寧ろ、比較を絶して、劣っている、わが性 を嘆くより外には、何ものをも所有しない、人間であった。
唯一つだけ、それでも、彼には異常なところがあった。それは、わが心を、外 の世界の悪意から、守ることだけに、勇気を持っていた点である。心とは何か。それは、内界の世界と言っ てもいい。単に、自分と言ってもいい。即ち、彼は、自分を頑強に、守り通した。やくざでもあり、意気地なしでもあった彼が、勇猛に、果敢に、この守備だけは、やって来たのであった。
そして、可なり老いて、昭和九年の秋、初めて、一篇の探偵小説を書いた。彼が書いたのではない、友人、海野十三が、寧ろ執拗にすすめて、彼をして書かしめたと言った方が、当っているかも知れぬ。それが、「新青年」に紹介せられた、彼の処女作「網膜脈視症」であった。
ついで翌年、連続して、五つの短篇を書いた。この間に、友人、海野十三、水谷準の二人が、作者に与えて呉れた激励については、作者は常に感銘の心を持つ。
此等の労作の間に、作者のうちには、まことに不思議なる、探偵小説への情熱が、湧いて来たのである。
探偵小説への好みは、既に、長い前から、彼にはあった。祖母に甘やかされて育った、長男の如きものにして、凡 そ探偵小説への好みを有しないものは、稀であろう。彼も、その例に洩れなかった。雑誌「新青年」は、その初期より、彼の愛読する雑誌であった。日本の探偵小説を代表するかに見える、江川乱歩の諸作は、もとより彼の愛読するところであった。この奇異なる文学は、凡そ早くから、彼の心を魅 していたのである。言わば、読者としては、既に卒業の期に近かった彼は、外に為すない彼には珍らしく、探偵小説に対する、一隻眼が養成せられてあったのだ。
そして、自分で作家として歩み始めてから、この一隻眼を以って眺めると、彼には可なり不思議と思われる、現象がみられるのである。
それは、彼が既に読者であった間に、幾度か疑問を起し、幾度かその疑問に答えていた、探偵小説の本質に関する問題であった。日本の探偵小説壇には、まだまだ、探偵小説非芸術論の盛んであることであった。尤も、斯く言えば、欧米の探偵小説壇に於ても、亦同じである。探偵小説は文学でも、芸術でもないと言う、探偵実話や、犯罪実話からの出源を、まだ忘れることの出来ない、それを、まだ克服することの出来ない、説が、威を振っていることであった。
彼の進む可き、そして、日本探偵小説壇が、励まなくてはならぬ道は、正に此処にあると、彼は思った。彼は、敢然として立ち、探偵小説芸術論の旗の下に、新らしい道を歩んでみようと、決心した。
此のような思想は、最もナイーヴには、探偵小説は、一度読まれて、そして直ちに捨てられるものであってはならぬ、と言うテーゼとして言い表わされる。月々の雑誌で読み捨てられ、読んでいるうちは面白いが、二度と再び読む気がしない、探偵実話や探偵記事と、同じものであってはならぬ、と言う思想から来ている。探偵小説も、正に、純文学の小説、酌みて尽きざる、芸術でなくてはならぬ、と言う思想から来ている。斯く言えば人は、その思想を追いつめてゆけば、探偵小説は無くなって、純文学へ帰して了いはせぬか、と言うであろう。否、断じて否。探偵小説は、一定の条件(形式)をそなえた文学である。詩歌が一定の条件を持ち、戯曲が、一定の条件を持つのと、同じである。而も、詩歌や戯曲は、その条件が、完全に美しく、充 されれば充たさるる程、文学としてすぐれて来るのであって、決して、遂にこれが同じ一つの形式に、帰一して了いはせぬのである。同じように、探偵小説は、その条件が充されれば充たさるる程、すぐれた文学となるのであって、斯くして、益々芸術となるのである。
然らば、探偵小説の条件とは何か。それは、謎があり、論理的思索があり、そして、解決がある、と言う、三つの重要なる条件である。此処では、小説と論理的思索との結合がある。この二つの、全く異った精神活動が、奇しくも結合して出来る文学が、即ち、探偵小説であった。この意味に於ては、あらゆる文学のうちで、探偵小説は、最も理智的にして、最も高尚なる精神活動の、文学であって、同時に、最も情感的な、スリルを伴う文学でもある、と言うことになる。この如き文学は、文学発展の歴史にあって、極めて近代の発見にかかるもので、将来の生長は、まだまだ、測り知られぬものがなくてはならぬのだ。
木々高太郎の著作権はまだ生きてますから、大量に引きすぎてちょっとまずいかな。
ともあれ、これを読んだ乱歩はおおいに技癢を感じたのではないかと思われます。
森鷗外の真似をして技癢とか書くのは悪い趣味だとも思いますけど。
アンドレ・ジード同様、木々高太郎もまた使嗾者ではなかったかと思われます。
以前にも書きましたけど──▼2013年10月19日:彼の火種は人生の阿呆?
『人生の阿呆』の「自序」も『貼雑乱歩(仮題、変更予定)』のための引用集に入れときたいと思います。
ところで、使嗾なんて言葉、ちょっと難しげだからあまりつかわないほうがいいのかしら?
『貼雑乱歩(仮題、変更予定)』のための引用集。
アンドレ・ジードの『一粒の麦もし死なずば』の冒頭には、こんな記述も見られます。僕の両親は、暑中休暇を、カルヴァドスのロック・ベーニャールで過す習慣 にしていた。この別荘は、ロンドー家の祖母 さまの死後、母が遺産として相続したものだ。僕らはお正月の休みを、ルーアンの、母の親戚の家で過し、春休みは、ユゼースで、父方の祖母のところで過すことにしていた。
僕のうちに、相反する影響を伝えているこの二つの家系、このフランスの北と南の二つの県そのまま、これほど互いに異なるものはまたとはあるまい。今日までに、僕は何度も信じる機会を持った、自分が芸術作品を作らずにはいられないわけは、芸術上の作品によってだけ、自分の内部のあまりにもかけ離れた二つの素質を調和させうるからだと、もし芸術作品を作らなかったとしたら、二つの素質は僕の内部にあって、争闘をつづけたはずだ。たとえ争闘とまではゆかなくとも、すくなくも談合をつづけたはずだ。思うに、その遺伝が、唯一無二の方向に押しやるようにできている人にのみ、確然とした肯定は可能なのだ。それとは逆に、相異なる種類の遺伝をあわせ持つ人間、その内部に、相反する要求が、互いに相殺 しながら共存し成長しつづける人間、僕の考えでは、審判者と芸術家とはじつにこの人たちの中から生れる。実例が、僕の説の正しさを示していなかったら、僕の説は大いに誤っていることになる。
ところが、僕が今ここにその大意をあげたこの法則は、今日まで、ほとんどまったく史家の心にふれずにきたものらしく、ために、僕がこの筆をとっているキュヴェルヴィルでいま手近にあるどの伝記にも、どの辞典にも、五十二巻から成るあの厖大 な『世界人名辞書』中の幾人かについて調べてみても、偉人や英雄の母方の血統についてはなんの示唆 をも見いだすことができないありさまだ。このことについて僕は、あとでもう一度書くつもりだ。
乱歩は「彼」の冒頭で、まず父方の家系図をさかのぼります。
ついで、祖父をはじめとした家族の肖像を丹念に描き出し、淡い絵のようにぼんやり残っている幼年期の遠い記憶を手探りしたあと、みずからの遺伝形質にも執拗な考察を加えます。
ジードはみずからの「あまりにもかけ離れた二つの素質」を自覚し、自身の芸術との内密で重要な関連性を察知していますが、乱歩もまた自分の資質を父母や祖父母のそれに照らして、あえていえば自分の正体を探偵しているように見えます。
乱歩は「彼」で、父とは他人のように似ていなかったと語り、ジードのいう「母方の血統」が自分を芸術に向かわせたと述べていますが、法律家を志して実業家となった父方の血統をうかがわせる面もむろんないわけではないですから、これはジード説の「実例」のひとつということになるかもしれません。
ついでですから、乱歩が昭和11年12月に発表した「サイモンズ、カーペンター、ジード」の冒頭二段落も引用。
アンドレ・ジードはスタンダール全集の「アルマンス」の序文の中に、この小説が読者に理解されないのは、読者が一つの秘密を察し得ないからである。その秘密というのは「アルマンス」の主人公オクターブが不能者だということで、作者はそれを全く読者から隠しているけれど、一度そこへ気がつけば、この小説の全体が生き生きと浮き上がって来るに違いないという意味の事を書いている。
私はこれと似たような事が、ジード自身の諸作についても云えるのではないかと思う。ジードの場合の秘密というのは、作品の裏を流れている彼の同性愛心理なのだが、ことに「贋金 づくり」などは、作者の同性愛心理を知らずしては、ほとんど理解できないのだとさえ考える。
私はこれと似たようなことが、乱歩自身の諸作についてもいえるのではないかと思う。
『貼雑乱歩(仮題、変更予定)』はどうせ貼雑なんだから、と開き直り、乱歩以外の書き手による文章もふんだんに貼雑することにいたしました。
まず、アンドレ・ジイドの『一粒の麦もし死なずば』は堀口大學訳の新潮文庫、まあ新潮文庫はジードではなくてジッドなんですけど、とにかく第一部冒頭をGoogleドライブのOCR機能でテキスト化。一
僕は、一八六九年の十一月二十二日に生れた。当時、僕の両親は、メディシス街の、アパートの五階か六階に住んでいたが、数年後には移転してしまったので、この家は僕の記憶にない。ただ、僕には今でもあの家のバルコニーが目に見える、──いや、むしろバルコニーから眺 めたもの、つまり上から見たあの広場と泉水の噴水、より正確に言うなら、今でも僕の目には見えるのだ、父が切り抜いてくれる紙の竜が、このバルコニーの上から僕と父の手を離れ、風に運ばれ、広場の噴水池の上を越え、リュクサンブール公園まで飛んでゆき、そこの高いマロニエの枝にとまるのが。
僕の目にはまたかなり大きなテーブルが一つ見えてくる、たぶんそれは食堂のだろうと思うが、とにかく床にまで引きずりそうなテーブル・クロースに被 われていた。僕はときどき遊びに来るおない年ぐらいの家番の忰 と一緒に、よくこの下へもぐりこんだものだ。
「何をなさいますんですか。そんなところへもぐったりなさって?」と、僕つきの女中がよく叫んだものだ。
「なんでもないさ。ただ遊んでいるだけだよ」こう言いながら僕らは、あらかじめ、見せかけに持ちこんでいたでたらめの玩具 を、騒々しくふって見せるのだったが、じつは、僕らは、ほかのことをして楽しんでいたのだ。二人で寄りそってはいても、さすがにまだてんで別個に、これはずっと後になって知ったことだが、《悪い習慣 》と呼ばれているあれ をやっていたのだった。
僕ら二人のうちの、どちらが、どちらに教えたのやら? また、教えたほうの一人がはじめ誰から教えられたものやら? 僕はまるで知らない。どうやら、子供が、ときとすると、独自 にそれを発明することもあると承認する必要があるのかもしれない。自分の場合にしても、僕は誰かに、あの慰みを教えられたか、それとも自分でそれを発見したか、明言はできないが、ただ言えるのは、僕の記憶の及ぶかぎり遠い過去にさかのぼってみても、あの慰みが、ちゃんとそこに存在するという事実だ。
このようなこと、また、これから先に僕が言おうとするようなことを語ることによって、自分がどんな損害を受けるか、もとより僕も承知しているし、僕に対して人々が投げかけるであろう非難の声も、僕にはあらかじめわかっている。ただ、僕のこの物語の存在理由は、それが真実だということ以外にはありえないのだ。いわば、僕は贖罪 のためにこれを書いているようなものなのだ。
魂のすみずみまでが、透明さと、やさしさと潔 らかさ以外の何ものでもないはずだと人々が信じているあの無邪気な年ごろの自分のうちに、僕は今日 思い出して、陰 と、醜悪さと、陰険さ以外の何物も見いださない。
乱歩の「彼」をやっつけるにあたって、誰が乱歩を使嗾したのか、と考えてみると、やっぱジードはかなり重要な位置を占めていたと断ぜざるを得ません。
「貼雑乱歩」の冒頭にどうして乱歩のおじいさんを登場させたかというと、乱歩のおじいさんはエドガー・アラン・ポーが生まれた年の次の年に生まれたんだぜ、という事実をこの書き出しのシークェンスの落ちにしようと考えていたからでもありましたが、いざ書いてみると落ちになりません。
困ったもんだな。しかしまあ、落ちにならない落ちのあとは、やっぱ中絶した自伝「彼」をやっつけるしかないな、ということになりました。
そうすると、ジードの『一粒の麦もし死なずば』をはじめっからさーっと走り読みする必要が出てきて、古い新潮文庫をひっぱり出してきたんですけど、まーあ活字の細かいこと細かいこと、くらくらしてしまいました。
なんか先の長い話だなあ。
すっかり暑くなりました。
頭のなかはすっかり煮詰まってます。「貼雑乱歩」もやっぱもうひとつだなあ。
てゆーか、何を書きゃいいんだか、いまだに見当がつきません。
平井杢 右衛門 陳就 は文化七年(一八一〇)、伊勢 国 津 に生まれた。津藩藤堂 家で重職にあった藩士の嫡男である。アメリカからペリー提督を乗せた黒船が浦賀に来航するのは四十年ほどあとのことになるが、波濤を越えて姿を現したロシアやイギリスなどの艦船は幕府と諸藩にすでに脅威を与えていた。伊勢湾に開かれて波静かな津の港も例外ではなく、津藩は弘化二年(一八四五)に大砲の鋳造を始めて異国船打ち払いに備えたと記録が残る。陳就は天保五年(一八三四)、跡目を相続して平井家七代当主となり、禄千石の上級藩士として津城に出仕する。藤堂家は伊勢伊賀両国を領する三十二万三千石の外様大名で、江戸期を一貫して津藩の藩主を務めた。陳就は十一代藩主高猷 に仕え、十代藩主だった高兌 の弟、つまり現藩主の叔父にあたる高允 の娘を娶った。いかにもややこしい話だが、とにかくお姫様を妻にした。生年も輿入れの年も不明なこの妻はしかし文久三年(一八六三)、陳就五十四歳の年に死去している。法号は静姝院、読みは、せいしいん、じょうしいん、せいしゅいん、じょうしゅいん、いずれとも知れぬが姝には美しいという意味がある。
とにかく近世と西欧を出しとかなきゃ、ってんで書いてみた書き出しなんですけど、なぜか平井陳就一代記になってしまいました。
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