日本文藝研究 68号
平成29・2017年3月── 関西学院大学日本文学会
江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』論 郷田三郎の人物造型を巡って
穆彦姣
▼関西学院大学リポジトリ:A00200304 紀要『日本文藝研究』
▼NDL-OPAC:江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』論 : 郷田三郎の人物造型を巡って
『貼雑乱歩(仮題、変更予定)』のための引用集。
創元推理文庫版『人生の阿呆』から、文庫本で十ページもある木々高太郎の「自序」。冒頭から引きます。
自分の作品に、自分で序を書くと言うのは、作者の足りないところを先きに弁護もし、註解もするようで、何となく好ましくないのであるが、この作には、そうする必要があり、又、意味もあると感ずるために、それをする。
この作の作者は、巷間に、医学博士であるとか、或いは大学教授であるとか、種々なる噂を生んでいると聞く。そして、或時は、そのためにだけ、この作者の作品が価値あるように、言いふらされていると聞く。
作者は、この作を提出するに当って、先ず、それを、訂正して貰い度いのである。この作の作者は、少しも医学博士ではない。又、少しも大学教授なぞでもない。否、よし、彼が、そうであったにしても、彼はそのような風袋 の故に、自分の作品を評価さるることなきを、切に、希望する。彼は唯生れたるままの彼として、一介の作家として、評価もされ、蔑視もされ度いと、切に願う。何故ならば、実際に、彼はそうなのであるから。
彼は、日本の下層階級の、普通の家に生れた。そして、彼の場合には、実際は曾祖母なのであったが、一切の条件が、ほかの家での祖母に相当したから、彼も亦、祖母と考えていた、その祖母に、甘やかされて育った、平凡な、田舎生れの子であった。
祖母に育てられた長男は、やくざである、意気地なしである、とは一般に言われていることであるし、全くその通りであった。彼も亦、やくざにせられ、蔭では、馬鹿だの意気地なしだのと言われて、大きくなった。少年時代は、両親、親族一同が、彼の文学への僅かな芽生えを、憎悪し、嫌忌 し、悉 く摘み去ろうとした。而 も、それは可なり苛酷に。──その時代は、文学などと言うものは、子供を悪るくすることより外に、能なきもので、世をあげて、蛇蝎 の如く忌み、圧迫す可 きものであるとの、考えが、この国の親達を支配していたからで、まことに止むを得ぬことでもあった。
祖母は、文学も何も、皆目 わからぬ人であったが、不思議にも、孫のすることは一々善意に解釈した。作者は、此処 で、不思議にもと言う。それは、不思議以外のものではない。世の、どの子供よりも、劣っていればと言って、少しも勝 れてはいなかった、彼の、頭の先から爪の先まで、祖母は善く解釈した。或る時は、彼自身、余りに見当違いな、善意の解釈に、祖母を嗤 いもした。
それは、唯々、盲目の愛と言うより外はない。動物愛などよりも、更らにはるかに、盲目の愛であった。
斯うして、祖母に甘やかされて育てられ、そして、青年時代を放縦無頼に過ごさなかったとすれば、それは、自然法則に反する。彼も、自然法則には、反しなかった。僅かに、独逸 語と露西亜 語とを少しく学び、それ等の言葉で書かれた医学書を、少しく興味を持って読んだ外 に、彼の青年時代は、他に迷惑をかける外に、何も為さなかった、と言っていい。そうして、既に、相当年をとって了 う迄、彼は何事も為さず、ますます貧乏となる生活を、所有するだけで あった。
彼は、斯くの如く、つまらぬ人間であった。寧ろ、比較を絶して、劣っている、わが性 を嘆くより外には、何ものをも所有しない、人間であった。
唯一つだけ、それでも、彼には異常なところがあった。それは、わが心を、外 の世界の悪意から、守ることだけに、勇気を持っていた点である。心とは何か。それは、内界の世界と言っ てもいい。単に、自分と言ってもいい。即ち、彼は、自分を頑強に、守り通した。やくざでもあり、意気地なしでもあった彼が、勇猛に、果敢に、この守備だけは、やって来たのであった。
そして、可なり老いて、昭和九年の秋、初めて、一篇の探偵小説を書いた。彼が書いたのではない、友人、海野十三が、寧ろ執拗にすすめて、彼をして書かしめたと言った方が、当っているかも知れぬ。それが、「新青年」に紹介せられた、彼の処女作「網膜脈視症」であった。
ついで翌年、連続して、五つの短篇を書いた。この間に、友人、海野十三、水谷準の二人が、作者に与えて呉れた激励については、作者は常に感銘の心を持つ。
此等の労作の間に、作者のうちには、まことに不思議なる、探偵小説への情熱が、湧いて来たのである。
探偵小説への好みは、既に、長い前から、彼にはあった。祖母に甘やかされて育った、長男の如きものにして、凡 そ探偵小説への好みを有しないものは、稀であろう。彼も、その例に洩れなかった。雑誌「新青年」は、その初期より、彼の愛読する雑誌であった。日本の探偵小説を代表するかに見える、江川乱歩の諸作は、もとより彼の愛読するところであった。この奇異なる文学は、凡そ早くから、彼の心を魅 していたのである。言わば、読者としては、既に卒業の期に近かった彼は、外に為すない彼には珍らしく、探偵小説に対する、一隻眼が養成せられてあったのだ。
そして、自分で作家として歩み始めてから、この一隻眼を以って眺めると、彼には可なり不思議と思われる、現象がみられるのである。
それは、彼が既に読者であった間に、幾度か疑問を起し、幾度かその疑問に答えていた、探偵小説の本質に関する問題であった。日本の探偵小説壇には、まだまだ、探偵小説非芸術論の盛んであることであった。尤も、斯く言えば、欧米の探偵小説壇に於ても、亦同じである。探偵小説は文学でも、芸術でもないと言う、探偵実話や、犯罪実話からの出源を、まだ忘れることの出来ない、それを、まだ克服することの出来ない、説が、威を振っていることであった。
彼の進む可き、そして、日本探偵小説壇が、励まなくてはならぬ道は、正に此処にあると、彼は思った。彼は、敢然として立ち、探偵小説芸術論の旗の下に、新らしい道を歩んでみようと、決心した。
此のような思想は、最もナイーヴには、探偵小説は、一度読まれて、そして直ちに捨てられるものであってはならぬ、と言うテーゼとして言い表わされる。月々の雑誌で読み捨てられ、読んでいるうちは面白いが、二度と再び読む気がしない、探偵実話や探偵記事と、同じものであってはならぬ、と言う思想から来ている。探偵小説も、正に、純文学の小説、酌みて尽きざる、芸術でなくてはならぬ、と言う思想から来ている。斯く言えば人は、その思想を追いつめてゆけば、探偵小説は無くなって、純文学へ帰して了いはせぬか、と言うであろう。否、断じて否。探偵小説は、一定の条件(形式)をそなえた文学である。詩歌が一定の条件を持ち、戯曲が、一定の条件を持つのと、同じである。而も、詩歌や戯曲は、その条件が、完全に美しく、充 されれば充たさるる程、文学としてすぐれて来るのであって、決して、遂にこれが同じ一つの形式に、帰一して了いはせぬのである。同じように、探偵小説は、その条件が充されれば充たさるる程、すぐれた文学となるのであって、斯くして、益々芸術となるのである。
然らば、探偵小説の条件とは何か。それは、謎があり、論理的思索があり、そして、解決がある、と言う、三つの重要なる条件である。此処では、小説と論理的思索との結合がある。この二つの、全く異った精神活動が、奇しくも結合して出来る文学が、即ち、探偵小説であった。この意味に於ては、あらゆる文学のうちで、探偵小説は、最も理智的にして、最も高尚なる精神活動の、文学であって、同時に、最も情感的な、スリルを伴う文学でもある、と言うことになる。この如き文学は、文学発展の歴史にあって、極めて近代の発見にかかるもので、将来の生長は、まだまだ、測り知られぬものがなくてはならぬのだ。
木々高太郎の著作権はまだ生きてますから、大量に引きすぎてちょっとまずいかな。
ともあれ、これを読んだ乱歩はおおいに技癢を感じたのではないかと思われます。
森鷗外の真似をして技癢とか書くのは悪い趣味だとも思いますけど。
藝文攷 第22号
平成29・2017年── 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻
〈探偵〉考 漱石と乱歩の場合
髙野和彰、植月惠一郎
p132─145
▼日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻:Home
▼NDL-OPAC:〈探偵〉考 : 漱石と乱歩の場合
アンドレ・ジード同様、木々高太郎もまた使嗾者ではなかったかと思われます。
以前にも書きましたけど──▼2013年10月19日:彼の火種は人生の阿呆?
『人生の阿呆』の「自序」も『貼雑乱歩(仮題、変更予定)』のための引用集に入れときたいと思います。
ところで、使嗾なんて言葉、ちょっと難しげだからあまりつかわないほうがいいのかしら?
電子書籍
盲獣 1
久木田高明
原案:江戸川乱歩
平成29・2017年── グループ・ゼロ
Entry
電子書籍
盲獣 2
久木田高明
原案:江戸川乱歩
平成29・2017年── グループ・ゼロ
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電子書籍
盲獣 3
久木田高明
原案:江戸川乱歩
平成29・2017年── グループ・ゼロ
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盲獣 4
久木田高明
原案:江戸川乱歩
平成29・2017年── グループ・ゼロ
Entry
雑誌
九州国語教育学会紀要 第6号
平成29・2017年── 九州国語教育学会
江戸川乱歩から谷崎潤一郎へ 「屋根裏の散歩者」における〈視覚〉の問題
田島優美
Entry
雑誌
藝文攷 第22号
平成29・2017年── 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻
〈探偵〉考 漱石と乱歩の場合
髙野和彰、植月惠一郎
Entry
九州国語教育学会紀要 第6号
平成29・2017年── 九州国語教育学会
江戸川乱歩から谷崎潤一郎へ 「屋根裏の散歩者」における〈視覚〉の問題
田島優美
p81─88
▼九州国語教育学会:九州国語教育学会紀要
▼NDL-OPAC:江戸川乱歩から谷崎潤一郎へ : 「屋根裏の散歩者」における〈視覚〉の問題
『貼雑乱歩(仮題、変更予定)』のための引用集。
アンドレ・ジードの『一粒の麦もし死なずば』の冒頭には、こんな記述も見られます。僕の両親は、暑中休暇を、カルヴァドスのロック・ベーニャールで過す習慣 にしていた。この別荘は、ロンドー家の祖母 さまの死後、母が遺産として相続したものだ。僕らはお正月の休みを、ルーアンの、母の親戚の家で過し、春休みは、ユゼースで、父方の祖母のところで過すことにしていた。
僕のうちに、相反する影響を伝えているこの二つの家系、このフランスの北と南の二つの県そのまま、これほど互いに異なるものはまたとはあるまい。今日までに、僕は何度も信じる機会を持った、自分が芸術作品を作らずにはいられないわけは、芸術上の作品によってだけ、自分の内部のあまりにもかけ離れた二つの素質を調和させうるからだと、もし芸術作品を作らなかったとしたら、二つの素質は僕の内部にあって、争闘をつづけたはずだ。たとえ争闘とまではゆかなくとも、すくなくも談合をつづけたはずだ。思うに、その遺伝が、唯一無二の方向に押しやるようにできている人にのみ、確然とした肯定は可能なのだ。それとは逆に、相異なる種類の遺伝をあわせ持つ人間、その内部に、相反する要求が、互いに相殺 しながら共存し成長しつづける人間、僕の考えでは、審判者と芸術家とはじつにこの人たちの中から生れる。実例が、僕の説の正しさを示していなかったら、僕の説は大いに誤っていることになる。
ところが、僕が今ここにその大意をあげたこの法則は、今日まで、ほとんどまったく史家の心にふれずにきたものらしく、ために、僕がこの筆をとっているキュヴェルヴィルでいま手近にあるどの伝記にも、どの辞典にも、五十二巻から成るあの厖大 な『世界人名辞書』中の幾人かについて調べてみても、偉人や英雄の母方の血統についてはなんの示唆 をも見いだすことができないありさまだ。このことについて僕は、あとでもう一度書くつもりだ。
乱歩は「彼」の冒頭で、まず父方の家系図をさかのぼります。
ついで、祖父をはじめとした家族の肖像を丹念に描き出し、淡い絵のようにぼんやり残っている幼年期の遠い記憶を手探りしたあと、みずからの遺伝形質にも執拗な考察を加えます。
ジードはみずからの「あまりにもかけ離れた二つの素質」を自覚し、自身の芸術との内密で重要な関連性を察知していますが、乱歩もまた自分の資質を父母や祖父母のそれに照らして、あえていえば自分の正体を探偵しているように見えます。
乱歩は「彼」で、父とは他人のように似ていなかったと語り、ジードのいう「母方の血統」が自分を芸術に向かわせたと述べていますが、法律家を志して実業家となった父方の血統をうかがわせる面もむろんないわけではないですから、これはジード説の「実例」のひとつということになるかもしれません。
ついでですから、乱歩が昭和11年12月に発表した「サイモンズ、カーペンター、ジード」の冒頭二段落も引用。
アンドレ・ジードはスタンダール全集の「アルマンス」の序文の中に、この小説が読者に理解されないのは、読者が一つの秘密を察し得ないからである。その秘密というのは「アルマンス」の主人公オクターブが不能者だということで、作者はそれを全く読者から隠しているけれど、一度そこへ気がつけば、この小説の全体が生き生きと浮き上がって来るに違いないという意味の事を書いている。
私はこれと似たような事が、ジード自身の諸作についても云えるのではないかと思う。ジードの場合の秘密というのは、作品の裏を流れている彼の同性愛心理なのだが、ことに「贋金 づくり」などは、作者の同性愛心理を知らずしては、ほとんど理解できないのだとさえ考える。
私はこれと似たようなことが、乱歩自身の諸作についてもいえるのではないかと思う。
ZAKZAK
平成29・2017年6月12日 産経デジタル
痛快&妖艶な“大人の紙芝居” 「六月花形新派公演 黒蜥蜴」
中本裕己
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痛快&妖艶な“大人の紙芝居” 「六月花形新派公演 黒蜥蜴」
2017.6.12
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明智小五郎(右、喜多村緑郎)は変装などを駆使して、黒蜥蜴(河合雪之丞)を追い詰める 明智小五郎(右、喜多村緑郎)は変装などを駆使して、黒蜥蜴(河合雪之丞)を追い詰める
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舞台「六月花形新派公演 黒蜥蜴」の取材会に出席した春本由香、河合雪之丞、喜多村緑郎、永島敏行、秋山真太郎(左から)
お江戸・日本橋の三越劇場は創立90周年。上演中の「六月花形新派公演 黒蜥蜴(くろとかげ)」は、このクラシカルなホール全体が舞台装置として生かされている。
江戸川乱歩の探偵小説を原作とした女盗賊と明智小五郎の対決を描いた「黒蜥蜴」は、ドラマ、映画、漫画など様々な形で取り上げられてきた。三島由紀夫脚本、美輪明宏主演による舞台も有名だが、今回は原点に立ち返った新派文芸部、齋藤雅文脚本・演出による。
明智には市川月乃助から転じ、新派の大名跡を継いだ喜多村緑郎。黒蜥蜴は、やはり市川春猿から、洋装も似合う華やかな新派の女形となった河合雪之丞という芸達者なコンビ。歌舞伎で培った所作や妖艶美に、新派のモダンなテンポ感、気っ風の良さが加わり、“大人の紙芝居”のようでワクワクした。
黒蜥蜴に惹かれながらも、追い詰める明智。昭和初期の日比谷のホテルから、大阪・通天閣まで登場する追跡劇は、大理石と石膏彫刻に覆われた劇場のクラシカルな壁や客席通路に乱歩の世界観が封じ込められていた。
宝石商の令嬢を演じる尾上松也の妹、春本由香は新派2作目ながら堂々。ベテラン新派劇団員に加え、刑事役には実力派の永島敏行、黒蜥蜴を「マダム」と慕う側近に劇団EXILEの秋山真太郎と、客演の顔ぶれも多彩で、だれもが親しみやすい新派公演だ。これを機会に、少年時代に読んだ乱歩シリーズをもう一度、読み返したくなった。公演は24日まで。 (中本裕己)
『貼雑乱歩(仮題、変更予定)』はどうせ貼雑なんだから、と開き直り、乱歩以外の書き手による文章もふんだんに貼雑することにいたしました。
まず、アンドレ・ジイドの『一粒の麦もし死なずば』は堀口大學訳の新潮文庫、まあ新潮文庫はジードではなくてジッドなんですけど、とにかく第一部冒頭をGoogleドライブのOCR機能でテキスト化。一
僕は、一八六九年の十一月二十二日に生れた。当時、僕の両親は、メディシス街の、アパートの五階か六階に住んでいたが、数年後には移転してしまったので、この家は僕の記憶にない。ただ、僕には今でもあの家のバルコニーが目に見える、──いや、むしろバルコニーから眺 めたもの、つまり上から見たあの広場と泉水の噴水、より正確に言うなら、今でも僕の目には見えるのだ、父が切り抜いてくれる紙の竜が、このバルコニーの上から僕と父の手を離れ、風に運ばれ、広場の噴水池の上を越え、リュクサンブール公園まで飛んでゆき、そこの高いマロニエの枝にとまるのが。
僕の目にはまたかなり大きなテーブルが一つ見えてくる、たぶんそれは食堂のだろうと思うが、とにかく床にまで引きずりそうなテーブル・クロースに被 われていた。僕はときどき遊びに来るおない年ぐらいの家番の忰 と一緒に、よくこの下へもぐりこんだものだ。
「何をなさいますんですか。そんなところへもぐったりなさって?」と、僕つきの女中がよく叫んだものだ。
「なんでもないさ。ただ遊んでいるだけだよ」こう言いながら僕らは、あらかじめ、見せかけに持ちこんでいたでたらめの玩具 を、騒々しくふって見せるのだったが、じつは、僕らは、ほかのことをして楽しんでいたのだ。二人で寄りそってはいても、さすがにまだてんで別個に、これはずっと後になって知ったことだが、《悪い習慣 》と呼ばれているあれ をやっていたのだった。
僕ら二人のうちの、どちらが、どちらに教えたのやら? また、教えたほうの一人がはじめ誰から教えられたものやら? 僕はまるで知らない。どうやら、子供が、ときとすると、独自 にそれを発明することもあると承認する必要があるのかもしれない。自分の場合にしても、僕は誰かに、あの慰みを教えられたか、それとも自分でそれを発見したか、明言はできないが、ただ言えるのは、僕の記憶の及ぶかぎり遠い過去にさかのぼってみても、あの慰みが、ちゃんとそこに存在するという事実だ。
このようなこと、また、これから先に僕が言おうとするようなことを語ることによって、自分がどんな損害を受けるか、もとより僕も承知しているし、僕に対して人々が投げかけるであろう非難の声も、僕にはあらかじめわかっている。ただ、僕のこの物語の存在理由は、それが真実だということ以外にはありえないのだ。いわば、僕は贖罪 のためにこれを書いているようなものなのだ。
魂のすみずみまでが、透明さと、やさしさと潔 らかさ以外の何ものでもないはずだと人々が信じているあの無邪気な年ごろの自分のうちに、僕は今日 思い出して、陰 と、醜悪さと、陰険さ以外の何物も見いださない。
乱歩の「彼」をやっつけるにあたって、誰が乱歩を使嗾したのか、と考えてみると、やっぱジードはかなり重要な位置を占めていたと断ぜざるを得ません。
江戸川乱歩電子全集 第14巻 ジュヴナイル 第5集
江戸川乱歩
平成29・2017年5月26日 小学館 小学館eBooks
本体1400円
ジュヴナイル 第4集
妖人ゴング
初出・底本:少年 昭和32年1月号(12巻1号/1957年1月1日)→12月号(12巻15号/12月1日)*12回連載
サーカスの怪人初出・底本:少年クラブ 昭和32年1月号(44巻1号/1957年1月1日)→12月号(44巻12号/12月1日)*12回連載
まほうやしき初出・底本:たのしい三年生 昭和32年1月号(1巻1号/1957年1月1日)→3月号(1巻3号/3月1日)*3回連載
赤いカブトムシ初出・底本:たのしい三年生 昭和32年4月号(1巻4号/1957年4月1日)→昭和33年3月号(1巻16号/1958年3月1日)*12回連載
塔上の奇術師初出・底本:少女クラブ 昭和33年1月号(36巻1号/1958年1月1日)→12月号(36巻14号/12月1日)*12回連載
夜光人間初出・底本:少年 昭和33年1月号(13巻1号/1958年1月1日)→12月号(13巻14号/12月1日)*12回連載
奇面城の秘密初出・底本:少年クラブ 昭和33年1月号(45巻1号/1958年1月1日)→12月号(45巻12号/12月1日)*12回連載
鉄人Q初出・底本:小学四年生 昭和33年4月号(37巻1号/1958年4月1日)→昭和34年3月号(37巻14号/1959年3月1日)/小学五年生 昭和34年4月号(12巻1号/1959年4月1日)→昭和35年3月号(12巻15号/1960年3月1日)*24回連載
ふしぎな人〜名たんていと二十面相初出・底本:たのしい二年生 昭和33年8月号(2巻5号/1958年8月1日)→昭和34年3月号(2巻12号/1959年3月1日)/たのしい三年生 昭和34年4月号(3巻1号/1959年4月1日)→12月号(3巻9号/12月1日)*8回連載(ふしぎな人)、9回連載(名たんていと二十めんそう)
解説 少女小説としての乱歩作品──耽美と恐怖の甘美なる戦慄小松史生子
宇宙紳士(後段5回)
氷川瓏
初出・底本:中学生の友1年 昭和34年4月号→8月号(1959年)
編集部註
江戸川乱歩電子全集オリジナル年譜
書誌情報
▼小学館:江戸川乱歩 電子全集14 ジュブナイル第5集
▼2016年5月28日:江戸川乱歩電子全集
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