Nabari Ningaikyo Blog
Posted by 中 相作 - 2011.01.09,Sun
横溝正史と江戸川乱歩(7)
あけましておめでとうございます。新年もすでに九日目ですが、このつづきものはこれが新春第一回目となりますので、念のため年初のご挨拶を申しあげる次第です。なんだかおまぬけですけど。
これまでのところを概観しておきましょうか。正史の短篇「双生児」は乱歩の同題作品を批判するために執筆された、というのが私の見立てです。ならばなぜ正史は、昭和4年2月という時期に、発表から四年以上が過ぎていた乱歩の「双生児」を批判しなければならなかったのか。原因は「陰獣」だったのではないか。私はそう考えます。「新青年」へのカムバックを切望し、直接要請もしていた正史にはまったく知らせることなく、乱歩は「改造」に発表するべく休筆明けの再起第一作を執筆していました。それを聞かされた正史の心中は、けっして穏やかなものではなかったはずです。乱歩に裏切られたとさえ、正史は感じたかもしれません。
しかし結局、乱歩は「新青年」でカムバックを果たし、再起第一作の「陰獣」は空前のヒットとなりました。正史も含めた「陰獣」の関係者全員がめでたしめでたしの状態だったわけですから、乱歩に対する正史の複雑な感情が憤りや怒りとして爆発する機会は訪れませんでした。しかし胸中にはやるかたのない憤懣が内攻していたはずで、だからこそ正史は「A sequel to the story of same subject by Mr. Rampo Edogawa」と乱歩を名指しした短篇で乱歩作品の批判を試み、それを憤懣のやりどころとしたように見受けられます。
乱歩に対する正史の複雑な感情。それは「双生児」一篇で解消されたわけではなく、正史はこのあとも、たとえば「呪いの塔」という書き下ろし長篇で、あるいは乱歩が「悪霊」を中絶させたことに対して、何かというと突っかかることを重ねてゆきます。乱歩は正史について、初対面のころから「相当自尊心も強く、こちらが年上なので、突っかかって来るようなところもあり」と記し、正史もそれを受けて「なにかにつけて突っかかっていかざるをえないような年頃でもあり、境遇でもあった」と回顧しているのですが、正史はなぜ、かくも執拗に乱歩に突っかかっていったのか。
正史がみずから述べたとおり、年齢や境遇のせいということもあったでしょう。正史はもともとそういう気質であり、性分であったのだということも可能でしょう。しかし、それでは月並に過ぎてちっとも面白くありません。ですからここにひとつ、意想外で魅力的な仮説を紹介しておきたいと思います。
昨年11月、「乱歩の恋文」というお芝居が上演されました。
▼演劇:乱歩の恋文(2010年11月19日)
長田育恵さんの戯曲「乱歩の恋文」は12月発行の「シアターアーツ」2010冬号に掲載されています。
▼長田育恵さんの「乱歩の恋文」(2010年11月29日)
▼シアターアーツ到着(2010年12月26日)
▼雑誌:乱歩の恋文(2011年1月5日)
「乱歩の恋文」はとても面白い戯曲でした。乱歩の小説に登場するモチーフはいわずもがな、自伝的エピソードが巧みに利用されている点にまず感心させられました。なかには、まさかそこまでは、と思わされるものもあって、たとえば大正8年、神田の洋書屋で本を買うからと金を無心した乱歩とのやりとりで、妻の隆はこんなせりふを口にします。
隆 何やっとるんですか。あなた。お櫃は空っぽなんやよ!
ポイントはおひつです。お隆さんはお米がなくなるとおひつにしゃもじを放り込み、それを両手で掲げてがらがらやかましく音を立てながら乱歩を責め立てたと平井隆太郎先生のエッセイに記されているのですが、「お櫃は空っぽなんやよ!」というせりふはそのエピソードを連想させるものでした。まさかそこまでは、つまり隆太郎先生のエッセイまでは、とは思われるものの、もしかしたらそこまで読み、そこまで踏まえたうえでの空っぽのおひつなのではないかとも思わされてしまうほど、関連文献の半端ではない読み込みによって乱歩の人物像が肉付けされているという寸法です。乱歩ファンには、どうぞご一読をとお薦めしておきましょう。
「乱歩の恋文」においてなんといっても印象的なのは、作品全体を支配する圧倒的な二重性です。乱歩その人における二重性なら珍しくもなんともありませんが、乱歩からかつて恋文を送られた主人公にも隆子であり隆でもあるという二重性が与えられ、さらには、人間と人形、現在と過去、そして「シアターアーツ」に寄せられた西堂行人さんの「解説」によれば「舞台を上部と下部の二層に分け、この劇構造を可視化することに成功した」とのことですから、舞台そのものの上と下、そういった重層的な二重性が作品全体を締めつけるように支配し、乱歩もまたみずからの二重性に引き裂かれて死に瀕するほどの危機に陥ってしまうのですが、といったゆくたては実際に戯曲でお読みいただくことにして、正史をめぐる意想外で魅力的な仮説について記します。
「乱歩の恋文」には大正12年、神戸から所用で上京した正史が「新青年」編集部を訪れ、森下雨村のもとに送られてきていた「二銭銅貨」の原稿を読むというなかなか心憎い虚構が織り込まれているのですが、読み終えた正史はこんなことをつぶやきます。
横溝 僕に用意された役だった。この国で初めて本格探偵小説をひっさげて文壇に登場するのは。チヨちゃん、僕の気持ちがわかるかい? ──僕は、永遠に役を横取りされた。
「新青年」誌上で翻案でも翻訳でもない創作探偵小説の時代の扉を開くのは、誰でもない自分であると正史は考えていた。それは正史のために用意されていた役だった。しかし、その役は乱歩に横取りされてしまう。これはまったく意想外ながら、充分に魅力的な仮説だといえるでしょう。むろんお芝居のうえでは仮説なんかではない真実として描かれているのですが、戯曲を離れてこれだけを取り出してもじつに興味深い指摘だと思われます。お芝居をやってる人ならではの指摘でもあります。正史にここまでの計画性や戦略性があったかどうか、という疑問はむろん否定できませんが、役を横取りされたことが正史をして乱歩に突っかからせる一因になったと考えてみる誘惑に、私はあらがうことができません。あなたはいったい、どうお思い?
つづく。
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