昨26日、小春日和のうららかな午後、不肖サンデー、季節はずれの桜花ひとひらとなって東川崎に散ってまいりました。横溝正史生誕地碑建立七周年記念イベントのことであります。正史令息、横溝亮一さんのご臨席をたまわり、「続・横溝正史と江戸川乱歩」と題して勇躍演題に立ったのでありますが、武運つたなく散華いたしました。いやー、お恥ずかしい。本日は何かと雑事が立て込んでおります。報告はまたあしたといたします。以上。
紀田順一郎さんの『乱歩彷徨』が売れ行き好調のようです。
▼東京堂書店 最新情報:今週のベストセラー(11月24日調べ)(2011年11月25日)
版元の社長さんも『乱歩彷徨』をブッシュしていらっしゃいます。
▼ヨコハマ経済新聞:「本をつくる仕事とは?」~よこはま 本への旅~ツブヤ大学BooK学科ヨコハマ講座:1限目(2011年11月23日)
さ、近鉄と阪神の車内で『乱歩彷徨』を熟読しつつ芦屋経由で神戸に行ってこよっと。
まずお知らせですが、「RAMPO Up-To-Date 2011」のエントリがこんなことになりました。
▼2011年1月2日:RAMPO Up-To-Date 2011
つづいてはお断りと申しますかいいわけと申しますか、乱歩関連の新刊、新聞、それから乱歩には関係ありませんがいただきものの「CHARADE NEUVE」とかもあるのですが。
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依然としてちょっと滞っております。気長にお待ちください。
乱歩関連の新刊とか、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターからのいただきものとか、あれこれ揃ってはいるのですが。
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眼を通したり、ブログにデータとして反映させたり、そのあたりのことがちょっと滞っておりまして、まことにどうもすいません。
あす16日が楽日となるお芝居「少年探偵団」のあれこれです。
▼ネルケプランニング:『少年探偵団』
▼ネルケプランニング:『少年探偵団』オフィシャルブログ
▼YouTube:『少年探偵団』細見大輔さんのメッセージ&稽古風景の映像をお届け!
▼YouTube:『少年探偵団』佐藤永典さんのメッセージ&稽古風景の映像をお届け!
藤堂高次公の側室になったおこうちゃんの話がつづきます。
東向寺の「冷川御前略歴」によれば、高次公がおこうちゃんを見初めたゆくたては、乱歩も引用しているとおり川で洗濯していたおこうちゃんを「如何ニモ奇様ノ姿ト思ヒシヤ手ヲ出シテ戯レケレバ」といったことでした。では「奇様ノ姿」とはどんな姿か。山田風太郎の「伊賀の散歩者」では「おそらく臀(しり)でも出して洗濯していたのではないかと思われる」とされていて、「どみね」パーソナリティの野上峰さんの頭にはおこうちゃんがお尻を丸出しにして洗濯しているイメージが強烈に焼きついてしまったらしく、去る8日の放送ではおこうちゃんがつきたての餅のようなまっしろなお尻を惜しげもなく全開にして洗濯していたということになってしまいました。なんですかもう、もしかしたら嫫女ではなかったかもしれないのに嫫女にされ、ほんとにそうだったかどうかわからないのにお尻全開ガールだったことにもされて、おこうちゃんにはとても失礼な放送になったかもしれません。
さて、そのおこうちゃんが高次の側室となったことで平井家にはどんな変化がもたらされたのか。そのあたりのことは乱歩の随筆「彼」に記されているのですが、年代記的事象の列挙は放送では理解していただきにくかったかもしれませんので、『宗国史』に見える藤堂家の記録も参照しつつ、ここで年表にまとめておきたいと思います。
寛永7年(1630) 藤堂高虎が死去、子の高次が二代目藩主となる。
寛文7年(1667) 藤堂高次とおこうのあいだに高睦(たかちか)が誕生。
寛文9年(1669) 藤堂高次が引退し、子の高久が三代目藩主となる。おこうの弟、平井友益(ともます)が藤堂家に召し抱えられる。友益は高次の針医として江戸屋敷に勤め、二十両六人扶持。
延宝4年(1676) 藤堂高次、七十六歳で死去。
天和2年(1682) 平井友益が死去し、子の陳救(のぶひら)が跡目を継ぐ。陳救は高睦の御小姓役として勤め、二十石五人扶持となる。
貞享2年(1685) 藤堂高久に跡継ぎがなかったため、弟の高睦が養子となる。平井陳救、百石に加増される。
元禄10年(1697) 平井陳救、百石加増され、二百石となる。
元禄16年(1703) 藤堂高久が死去し、高睦が四代目藩主となる。
宝永2年(1705) 藤堂高睦が久居藩主、藤堂高通の子、高敏を養子とする。
宝永4年(1707) おこう、八十二歳で死去。平井陳救が八百石を加増され、千石となる。
宝永5年(1708) 藤堂高睦、四十二歳で死去。高敏が五代目藩主となる。
正徳4年(1714) 平井陳救、江戸から津へ移住。
高次が引退した年におこうの弟、友益が藤堂家に召し抱えられました。この友益が平井家の初代とされています。高次とおこうの子、高睦が高久の養子となった年には平井家二代目の陳救が百石に加増され、十二年後には二百石となりました。そしておこうが死去した年、一気に千石まで加増されましたが、乱歩は「彼」に「太平の世にこの出世はただ事でないが、丁度この宝永四年には彼の伯母に当る前記高睦公の実母となった婦人が没しているから、当代の高睦公がその実母の喪を悲しんで、母の霊を慰める意味でこの破格の加増をしたのではないかと想像される」としています。
さて、上の年表の最後の行にあるとおり、陳救は正徳4年に江戸から津へ移住しました。ところが「彼」では「正徳三年に正式に伊勢の津へ移住した」とされています。これは乱歩の誤りで、平井家の家系図には陳救が「正徳三癸巳年御國附奉願翌午年正月津引越」と記されています。そんなことがなぜわかるかというと、私の手元には乱歩のご遺族から頂戴した家系図のコピーがあるからです。家系図の表紙の画像はこんな感じ。
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こんな感じで家系図のすべてのページを撮影し、CDに焼いたものを少し以前、思いがけず頂戴してやはり望外の喜びをおぼえた次第です。観光案内の『伊豆の番頭』も東向寺の「冷川御前略歴」もこの「平井系譜」も、もう三年前のことになりますか、東京にある日本推理作家協会の事務局で開かれている土曜サロンという定例会で講師を務めたとき入手したもので、せっかく三重県の人間が講師を担当するのだから津藩藤堂家と平井家の関係をテーマにしようと考え、関係資料の調査収集に努めた結果、ありがたく手に入れることができた資料でした。
それでこの「平井系譜」、乱歩が「彼」や「祖先発見記」に記していない事実もむろんたくさん記録されているのですが、必要とあらばそうした記録を公表してもよろしいでしょうかとご遺族にお訊きしましたところ、「平井系譜」はもう公共財産のようなものだからとOKをいただきましたので、さっそく地域研究の貴重な資料として役に立ってもらいましたというのがこの新聞記事。
▼2011年4月23日:ウェブニュース:上野城下町絵図を発見 伊賀文化産業協 修復、来春公開へ
記事には「正徳5年に津から転入した藩士で、作家・江戸川乱歩(本名・平井太郎)の先祖にあたる平井隼人」とありますが、隼人というのは平井陳救の通称で、柳生十兵衛三厳みたいにフルネームで記せば平井隼人陳救ということになります。この隼人陳救、正徳4年正月に江戸から津に引っ越したあと、「同五乙未年正月伊賀附仰付」とのことで伊賀上野の城下町に移住し、城下町の地図にも平井隼人という名前が書き入れられました。その地図の製作年代を推定するうえで、「平井系譜」に記録されていた移住の年が手がかりになったという寸法です。
みたいな感じで8日の「どみね」では平井家と伊賀上野の関係も軽くお話ししてきたのですが、リスナーのみなさんにこういった年代記的事象をうまくお伝えすることができたかどうか。ここでやはり年表にまとめておきたいと思います。いずれも乱歩は明らかにしておらず、「平井系譜」にもとづいて初めて公表する記録です。
正徳5年(1715) 陳就(のぶひら)、伊賀附となる。
享保9年(1724) 陳就の子、陳以(のぶゆき)が跡目を相続。
享保18年(1733) 陳就が死去し、伊賀上野の広禅寺に葬られる。
寛延元年(1748) 陳以が死去し、広禅寺に葬られる。子の陳為が跡目を相続。
寛延2年(1749) 陳為、津附となる。
二代目の陳就、三代目の陳以、四代目の陳為と平井家は三代にわたって伊賀上野の城下町に住みました。正徳5年から寛延2年まで三十四年ほど、平井家は伊賀に住まいしていたことになります。このあたりの歴史的事実も駆け足でお話ししたのですが、時間が不足気味でしたから説明不足になったかもしれません。29日の放送では乱歩の祖父と祖母の話からスタートし、なんとか乱歩の誕生までお話ししたいなと思っております。よろしくどうぞ。
「祖先発見記」によりますと乱歩は昭和29年秋、伊豆伊東を訪れて『伊豆の番頭』という名所案内を購入し、そこに「東光寺」という項を発見します。この『伊豆の番頭』はいまでも古書店で入手することが可能で、私も少し以前に購入しました。乱歩が発見したのはこの文章です。
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乱歩は平井家の家系図で祖先のことを知っていましたから、ここに出てくるおこう、のちの冷川御前が自分の祖先だとすぐにわかりました。そこで自動車を雇って冷川村の東向寺を訪ね、住職にかくかくしかじかと事情を説明して寺の古文書を見せてもらいます。すると、明治時代にまとめられた記録のなかにおこうのことを記したものがありました。こういう文章です。
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「冷川御前略歴」というこの文書は、やはり少し以前、インターネットで検索して東向寺の住所を調べ、手紙でお願いしてお送りいただいたコピーです。コピーを頂戴できたのは望外のことで、いやいやこちらからお願いしたのですから望外と表現するのは変かもしれませんが、とにかく折り返しコピーをお送りいただけたのはとても嬉しいことでした。
というのもこうした場合、名張市立図書館の嘱託であったころは手紙であれ電話であれ、乱歩が生まれたまちの図書館が乱歩の関連資料を収集しているのですが、と始めればすんなり用件に入れたのですが、いまはそんなわけにはまいりません。かなり手間のかかることになっておりまして、どういう手間かといいますと、こんにちは、怪しい者ではありません、乱歩が生まれた名張市の図書館で乱歩資料担当嘱託をしていた者ですが、名張市というインチキ自治体にかくかくしかじかでいやもうそれはそれはひどい目に遭わされましてな、そろそろ復讐に着手しちゃろうかと思うとるところですばってんが、みたいなことを延々と説明し、そのあとようやく、たとえば東向寺にお願いした件であれば、乱歩が「祖先発見記」に記している文書のコピーをお送りいただけないでしょうか、と三拝九拝してなんとかお聞き届けいただいたというわけですから、どこの馬の骨とも知れぬ人間の不躾なお願いをご快諾いただけたのはやはり望外と表現すべきことであったと思い返されます。
さてこの「冷川御前略歴」ですが、おこうちゃんは嫫女だったということにされています。嫫女は、ぼじょ、と読み、乱歩はこれを「祖先発見記」に引用するにあたって「註、醜女の意」との註釈を付しています。しかし、これはほんとのことなのかどうか。おとといの放送でも述べたのですが、美女であったことが語り伝えられることはあっても、醜女であったことが語り継がれることはないのではないか。「冷川御前略歴」がまとめられたのは明治21年で、宝永4年に冷川御前が死去してから百八十一年後にあたります。たかが醜女であったという事実がそこまで長く伝承されるものかどうか。
嫫女を新大字典で引いてみると「嫫母・嫫姆」という熟語があげられていて、読みは「ボボ」、いや九州地方のみなさんどうもすいません、それで語釈が「古代、黄帝の第四妃の名。賢夫人であったが醜婦とされる。転じて、醜女をいう」とあります。われらがおこうちゃんも藤堂家においては「貞操失念スルコトナク目下ヲ憐ミ嫫女ト雖モ智才機ニ応ジテ顕用スル」といった賢夫人ぶりを発揮していますから、おこうちゃんが嫫女であったというのはもしかしたら脚色で、そこには女は容姿よりも心根が大事だみたいな女大学的教訓が秘められているのかもしれません。ちなみに「冷川御前略歴」の執筆は杉本林右衛門という人で、名前がそれらしくないのが気になるのですが、たぶん東向寺の住職だった方ではないかと思われます。
きのう、先日お知らせしましたとおり、FMなばりの「どみね」という番組に出演してまいりました。番組パーソナリティの野上峰さんからオファーをいただいたとき、とても時間が足りないなと思われましたので、無理をお願いして8日と29日の二回にわたる出演を許可していただいたのですが、一回あたりのトークの時間は三十分ほどですから、二回になっても時間はとても足りません。ですからきのうも放送冒頭で打ち明けましたとおり、FMなばりでレギュラーの座を獲得せにゃならんやろなと考えるに至りました。
それはそれとして、とにかく時間が足りません。なぜ足りないかというと、乱歩の家系と津藩の藩主だった藤堂家との関係をテーマにしたからで、となると四百年ほど前のことから始めなければなりません。そもそも名張市民だから乱歩作品に親しまなければならないなんてことはありませんし、いくら乱歩作品を推奨したところで読まない人はいつまでたってもお読みにゃならんでしょう。つまり名張市民が乱歩を知らなければならない理由なんてどこにもなく、私が名張市民のみなさんに乱歩作品をお読みくださいとお願いしなきゃなんない筋合いもまたどこにもないというわけなのですが、名張市民が名張の歴史を知る必要は少なからずあります。地域の歴史をろくに知りもせんみなさんが地域でなにかするとなると、とどのつまりはこんなことになってしまいます。
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そういえば先日、伊賀市のほうで、地域社会の歴史を知らない人間が市長に就任したせいでとんでもないことになってしまった、とぼやいている方がいらっしゃいましたが、それはほんとにそのとおり。地域社会の歴史の最先端に立っているという自覚や認識のない人間、つまりは歴史を知らない人間は歴史を無茶苦茶にしてしまいかねません。ですから私も名張市民のみなさんには乱歩の話よりも地域の歴史の話をお聴きいただくべきだと考えているわけで、乱歩がらみで地域の歴史を知っていただくには藤堂家との関係から話をスタートさせることが要求されたという寸法です。
そんなこんなで以下、ライブ配信も含め放送をお聴きいただけなかった方にはややわかりにくい話になりますが、きのうの補足説明を連ねることにして、乱歩の家、つまり平井家と藤堂家との関係は乱歩の「祖先発見記」で知ることができます。しかしきのうの放送はややひねりを加えた構成とし、「祖先発見記」を下敷きにした山田風太郎の短篇「伊賀の散歩者」をとりあげることにして、その冒頭を野上さんに朗読していただきました。
それからその流れで「祖先発見記」に出てくる伊豆伊東の東向寺というお寺に残されていた古文書に話を進めたのですが、ヒロインは古文書に登場する於光という女性。おこうともおみつとも読める名ですが、地元の名所案内ではおこうとひらがな表記されていますからそれに従っておこうということにして話を進めますと、熱海でたまたま見初めたおこうを側室にしたのが藤堂家の二代目、高次というお殿さまでした。
▼kotobank:藤堂高次
藤堂家には『宗国史』という藩史があります。
▼Yahoo!百科事典:宗国史
この『宗国史』に記録されたおこうの記事がこれです。
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嬖人は、へいじん、と読んで、新大字典によれば「気に入りの臣」または「寵愛を受ける女」の意味があります。大通公というのは高次のことで、高次とのあいだに生まれた大亨公というのが藤堂家四代の高睦です。
▼ウィキペディア:藤堂高睦
高次の子、高久が三代目を継いだのですが、高久には子がありませんでしたので弟の高睦が高久の養子になり、高久の死後、四代目の藩主になりました。つまり平井家の血を継いだお殿さまが誕生したのですが、高睦も跡継ぎに恵まれず養子を迎えましたから、平井家の血脈を引くお殿さまは高睦ひとりということになってしまいました。
藤堂家と平井家、ふたつの家系の年代記がテーマですから内容はかなりややこしく、リスナーのみなさんに理解していただけるかどうか心配だったのですが、野上さんが重要なポイントを巧みに確認しながらトークにつきあってくださいましたので、なんとかおわかりいただけたのではないかと思います。
Dokutaさんからのコメントでこのページを教えていただきました。
▼アジアミステリリーグ:韓国語に翻訳された日本の探偵作家の作品一覧(2011年9月5日)
このページで教えられたのがこれ。
▼Togetter:日本のミステリ、海外で人気があるのはどの作品? (2009年 韓国編)
乱歩が十五位に入っているというのはなんだかすごいことだなと思われますので、当ブログでもお知らせしておく次第です。
4月6日にアップロードされました。2009年3月31日に放送された「エドガー・アラン・ポー 200年目の疑惑」です。番組のデータはこちら。
▼NHKアーカイブス:プレミアム8<文化・芸術> <新> シリーズ 偉大なるミステリー作家たち「エドガー・アラン・ポー 200年目の疑惑」
一時間三十分の長丁場となります。
さ、ゆっくり見ようっと。
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