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Nabari Ningaikyo Blog
Posted by - 2024.05.03,Fri
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Posted by 中 相作 - 2018.03.28,Wed

 先日のこのエントリ。

 2018年3月24日:舞踊家・田中泯 人間って、はっきり言って野蛮です

 このエントリに無断転載した記事で、田中泯さんが「たとえば江戸川乱歩が『私は生まれた時から、私という群れの中の一人でしかない』と言っているように」とおっしゃってますけど、乱歩はそんなことはいっておりません。

 と断言していいものかどうか、という気もいたしますけど、たぶんいってないはずで、そもそも乱歩は群れなるものを疎ましく思っていたのではないか。

 群れからは完全に疎外されているという感覚、「僕は皆と同じでないんだ」という異端者の認識が、少年期以来、乱歩に親しく寄り添っていたのではないか。

 むろん成人後、たとえば探偵文壇で群れることはあっても、その場合には群れの頭目として立たなければ気が済まない人ではあったみたいですけど、とにかく乱歩、群れのなかのひとりでしかない、なんてことは考えてなかったと思われます。

 とはいえこれが、自我なんていくらでも代替可能なしろものであって、人はいとも容易に他人になり変わることができるのであるといった怪人二十面相的な変身願望を表明した言葉であったのだとすれば、乱歩がいっていたとしても不思議ではありません。

 しかし、やっぱりいってないはずですし、田中泯さんがどういう経路をたどってこうした勘違いに至ったのか、その点にも興味を惹かれますが、それはそれとして、3月17日の土曜日は横光利一のお誕生日で、名張市のおとなり伊賀市では利一をしのぶ「『雪解』のつどい」なるイベントが催されました。

 行きませんでしたけど。

 毎日新聞:「新感覚派」作家・生誕120年 横光利一をしのぶ あすつどい、若者向け催しも 伊賀 /三重(2018年3月16日)

 今年は横光利一の生誕百二十年にあたりますので、どさくさまぎれのお仕事で六十ページあまりの薄い本を一冊つくりました。

 そこらの同窓会とか研究会とか横光利一ゆかりの地元組織が協力して発行した一冊で、表紙がこれです。


 この本に昔書いた文章を強引に再録し、やはりどさくさまぎれに誤謬を訂する付記を添えました。

 全文、行っときます。

 段落間の一行あきは、ブラウザ上の読みやすさに配慮し、転載にあたって新たに設けたものです。

江戸川乱歩・横光利一


 汽笛とトンネル わが国に探偵小説の基礎を築き、いまも数多くの読者を獲得している江戸川乱歩は、随筆「一頁自伝」に「ピイッと笛の音がして、おもちゃみたいな汽車がゴーッと走って行った、それがこの世で最初の記憶。二歳、伊勢の国亀山町在住の頃である」という幼時の思い出を記している。宿場町だった亀山には明治時代なかばに関西鉄道が敷設され、乱歩は鉄道という文明を生まれたときから身近なものとして育ったのである。

 昭和初年から戦前戦中を通じて日本文学の第一線に立ちつづけた横光利一は、長編小説「旅愁」の主人公をトンネル技師の長男として設定した。パリから帰国して東北地方にある母親の郷里を訪れた主人公は、「日本に顕われ出て来た初めての西洋の姿」であるトンネルを遠望し、「トンネルから文化が生じて来る」と確信していた父と、「心魂さえ洋式に変り、落ちつく土もない、漂う人」になってしまった自身との違いに深い感慨を抱く。

 明治時代に入って、人や貨物の交通の舞台は道路から鉄道に移行しはじめる。鉄路はいわば新時代の街道として全国に四通八達し、近代化を支える礎となった。明治時代後半に生まれ、ともに三重県伊賀地域とゆかりをもつ江戸川乱歩と横光利一は、鉄道に象徴される新文明を享受し、それをもたらした西洋近代と正面から向き合うことを自覚的に体現した作家である。二人の生涯に日本の近代を生きた知識人の典型を見ることも可能だろう。

 乱歩と名張 江戸川乱歩は本名平井太郎。一八九四(明治二十七)年、三重県名張郡名張町(名張市)に生まれた。平井家は津藤堂藩に仕えた武士の家柄だったが、父繁男は大学を卒業して名張郡役所に勤務、津から名張へ母を招き、妻を迎えて乱歩をもうけた。翌年、繁男の転勤にともなって一家で亀山に転居したため、乱歩は名張を知ることなく成長し、名古屋で少年期を過ごしたあと、早稲田大学予科に進んで探偵小説の面白さに目覚めた。

 一九二三(大正十二)年、デビュー作「二銭銅貨」で探偵小説界の注目を集め、「心理試験」をはじめとした短編で地歩を固めた乱歩は、昭和初年の出版ブームを背景に大衆小説の分野へ進出、名探偵明智小五郎が活躍する「黄金仮面」などの長編で人気作家として地位を確立し、「怪人二十面相」にはじまる少年小説でも熱狂的な支持を得た。戦後は江戸川乱歩賞の創設や日本推理作家協会の設立などを通じ、探偵小説の興隆に力を尽くした。

 一九三五(昭和十)年前後、旅行中に名張駅で途中下車したのを唯一の例外として、乱歩は名張と無縁なままに過ごしたが、一九五二年、早稲田在学当時から恩人として慕っていた伊賀上野出身の代議士、川崎克の次男秀二に衆議院議員選挙の応援を依頼され、名張町に足を運ぶことになる。町民は郷土出身の名士を温かく歓迎し、生家跡への案内も買って出た。五〇代後半で初めて、乱歩は自分が生まれた場所を知ったのである。

 これをきっかけとして町民有志の手で生誕地碑の建立が計画され、一九五五年に乱歩夫妻を招いて除幕式が営まれた。乱歩は「ふるさと発見記」で名張の町の「昔ながらの城下町の風情」を讃え、「生誕碑除幕式」では「町の人々が、自発的に」碑を建ててくれた好意に感謝を捧げている。死去はその一〇年後、一九六五年のことである。一九八七年、名張市立図書館に江戸川乱歩コーナーが開設され、遺品や著書を展示している。

 横光と伊賀 乱歩より四歳年下の横光利一は一八九八(明治三十一)年、福島県北会津郡東山村(会津若松市)に生まれた。父梅次郎は大分県宇佐郡の出身で、鉄道などの土木工事を職業としていたために一家は各地を転々とした。一九〇四年、父が仕事で朝鮮に渡ることになり、母、姉とともに三重県阿山郡東柘植村(伊賀市)の母の実家に居留、横光はこの柘植と上野町、滋賀県大津市で少年時代を過ごすことになる。

 三重県立第三中学(上野高校)に通った五年間、横光は野球や水泳などの花形選手として活躍したが、校友会誌に発表した「夜の翅」「第五学年修学旅行記」には文学への志向と才能もまた際立っている。当時経験した四歳年下の少女との恋愛はのちに「雪解」という小説として対象化されるが、伊賀の風土と気質への複雑な愛憎を交錯させたこの作品からは、伊賀が作家としての内面形成に重要な役割を果たした場であったこともうかがえる。

 早稲田大学予科で本格的に習作を開始、一九二三(大正十二)年の「日輪」と「蠅」で一躍寵児となった横光は、新感覚派と呼ばれる文芸潮流の先頭に立ち、「機械」や「上海」などの作品で文壇の頂点を極めた。半年の渡欧体験にもとづいて一九三七(昭和十二)年に執筆がはじまった「旅愁」は、西洋と東洋の対立を主題として時代の激動のなかで書き継がれたが、一九四七年、四九歳で迎えた死によって未完のまま遺された。

 随筆「伊賀のこと」に「私は伊賀が好きである」と書き、長編「春園」で登場人物に漬物は「伊賀が第一等」と喋らせるなど、横光は折にふれて伊賀への愛惜を表明した。再出発を期した戦後最初の著書が旧作を増補した『雪解』であり、絶筆「洋燈」が柘植での少年期を題材としていた点にも、時をへて純化された伊賀への視線が認められる。柘植には一九五九年、「蟻台上に飢えて月高し」の句を刻んだ文学碑が建立された。

 旅愁と郷愁 横光の盟友だった川端康成は、弔辞のなかで「西方と戦った新しい東方の受難者」と横光の宿命を表現した。この宿命は西洋に範を取ったわが国の近代化にも深い関わりを有している。敗戦直後の死によって文学者の戦争責任を余儀なく負わされた横光が、「旅愁」に描いた西欧への接近と日本への回帰の先に何を見ていたのか、それは新たなナショナリズムの時代を迎えたこの二一世紀初頭にこそ検証されるべき問題であろう。

 乱歩にとって西洋近代は、ともに合理主義を基盤とした探偵小説と精神分析というふたつのジャンルとして存在していた。論理に支えられた探偵小説の形式に拠りながら、無意識の欲望を暴いたフロイトの理論にも傾倒した乱歩は、随筆「残虐への郷愁」に「本来の人類が如何に残虐を愛したか」と創作の拠りどころを打ち明けている。心理の深層に眠る人類共通の官能に立ち戻ることで、乱歩は作品に色褪せない魅力を与え得たといえよう。

 ところで、乱歩と横光が実際に顔を合わせたことはあったのだろうか。乱歩の自伝『探偵小説四十年』によれば、横光も名を連ねた新感覚派映画連盟が「狂った一頁」(一九二六年)につづく第二作として乱歩作品の映画化を企画し、乱歩は新感覚派の作家たちと面会したが、「横光利一氏とは一度も同席しなかったと思う」という。二人はついに会うことなく、お互いの伊賀とのゆかりさえ知らないまま、それぞれの生を終えたとおぼしい。

所収:街道の日本史34 奈良と伊勢街道 平成十七・二〇〇五年七月十日 吉川弘文館 編=木村茂光、吉井敏幸


 【付記】
 再録の機会を得たので事実誤認を訂しておく。「二人はついに会うことなく、お互いの伊賀とのゆかりさえ知らないまま、それぞれの生を終えたとおぼしい」と記したのは誤りで、江戸川乱歩推理文庫65『乱歩年譜著作目録集成』(講談社、一九八九年)の昭和五十年の項に「横光利一宛ペン書きはがき(文部省、高等学校芸術科書道指導書・表現編、一月)」とあるのを見落としていた。古書店でその『昭和四十九年(一九七四年) 高等学校芸術科書道指導資料 表現編』(東山書房、一九七五年)を入手したところ、第五章「書道における表現学習の教材」の第六節「現代の書」に「江戸川乱歩」というキャプションを添えたはがきの通信面が写真で掲載されていた。宛名面は収めれていないため宛先や日付は確認できない。収録は「現在発行されている、高等学校用書道教科書に掲載されたもの」「書道の学習指導要領の領域においての生活書の代表的なもの」とされているが、「現行教科書に掲載されていないもの」も含まれているとのことだから、乱歩のはがきが実際に教科書に採られたかどうかもじつは判然としない。高校の先生をしている知人に心当たりを調べてもらったが、残念ながらそんな教科書は見つからなかった。とはいえ、いつ、どこで、どんな用件で、といった細部はいっさい不明ながら、二人が実際に対面を果たしたことがあり、お互いの伊賀とのゆかりもよく心得ていたことはこのはがきが証明しているといっていいだろう。はがきの文面を活字に起こして、ここに謹んで誤謬を訂正しておく次第である。読者諒せよ。(二〇一八・二・一五)

拝啓先日は突然御邪魔
いたし色々御話を伺ひ有難
う存じました、同郷の後輩
として今後ともよろしくお
願ひ申上げます、不取敢御
挨拶のみ申上げます、草々

 はがきの写真を無断転載。



 名張市同様伊賀市もまた知性にはまるで無縁な土地柄なんですけど、乱歩生誕百二十年を迎えても死体のように動きがなかった名張市に比べると、伊賀市のほうが多少はましだということでしょうか。

 いや、そんなこともないか。

 名張市も伊賀市も、とにかくひどいものです。
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