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Posted by 中 相作 - 2015.08.16,Sun
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 平成27・2015年8月11日 読売新聞社

アクションとカルト 二つの顔…石井輝男
 福永聖二
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アクションとカルト 二つの顔…石井輝男

2015年08月11日 05時25分



「ゲンセンカン主人」(1993年)撮影現場の石井輝男監督

 ◇映画人列伝

 石井輝男監督には、大きく分けて二つの顔がある。

 シャープな感覚のアクション映画の作り手と、エログロの極みを行くカルト映画の帝王と。

 前者で言えば、分かりやすいのが「網走番外地」シリーズ。主演の高倉健を一躍大スターにのし上げたこの作品は、任侠にんきょう映画と思う人も多いだろう。だが、これは犯罪映画ではあるけれど、任侠映画ではない。

 「網走番外地」の第1作自体、スタンリー・クレイマー監督の米映画「手錠のままの脱獄」(1958年)をモチーフにしている。反りの合わない者同士が手錠につながれたまま脱獄する。そこにあるのは義理と人情ではなく、やるかやられるかの、はらはらするアクションである。東映という会社に所属していたため、「昭和侠客伝」(63年)も撮っているが、義理と人情の任侠世界は、本来の石井監督の感性とは全く違っている。

 新東宝で撮った「女体桟橋」(58年)、「白線秘密地帯」(同)などで注目された。描かれるのは秘密売春、人身売買の世界だが、日本映画にありがちな湿っぽさはない。「黄線イエロー地帯ライン」(60年)、「セクシー地帯ライン」(61年)など「地帯ライン」シリーズがモダンな感覚のアクションとして評価された。

 ■香港映画にも影響

 東映に移ると、「花と嵐とギャング」(同)を始めとする「ギャング」シリーズを次々と手掛けた。

 「網走番外地」などで助監督だった内藤誠監督(79)は、「東映ではそれまで、セットの隅々まで気を配って、汚しを入れたり、ガラスを磨いたり。照明にも一つ一つ丁寧に時間をかけていました。ところが石井監督はそういうことは一切しないで、どんどん撮っていく。東映のリアリズムに飽きが来ていた私たち若手には、ある種の異文化に接したような、新鮮な感覚がありました」と証言する。

 弾を一発撃つのにも意味を持たせていた東映アクションとは違い、石井監督はすぐに撃ち合う。役柄の気持ちについて俳優に求めることなく、「ここからただ歩けばいいから」などと言ったという。やり方は少々粗っぽいが、切れ味があって軽快。それまでにはなかった作風で、東映アクションの流れを変えた。「仁義なき戦い」の深作欣二監督も、石井作品に影響を受けたに違いない。

 鶴田浩二、高倉共演の「東京ギャング対香港ギャング」(64年)、高倉主演の「ならず者」(同)は、香港、マカオを舞台にしている。内藤監督は「ジョン・ウーやリンゴ・ラム、ツイ・ハークといった香港の監督たちが出てきた時、これは石井輝男だ、と思いました。香港アクションにも影響を与えたのではないでしょうか」と話している。

 「イメージがしっかりとあるため、撮影に迷いがない」と語るのは、「暴力戦士」(79年)などを手掛けた瀬戸恒雄プロデューサー(68)。「全員集合の場面で、俳優をそろえることができなくて悩んだことがありました。すると石井さんは『吹き替えを用意してください』と一言。その場に居ない俳優の衣装を着た後ろ姿を入れ込んで撮った。撮り始めたら本当に早かった」

 ■過激で娯楽

 映画が斜陽化し始めると、日活が71年にロマンポルノを開始するのと前後して、東映は岡田茂企画製作本部長(当時)が「エログロ路線」にかじを切った。その大きな担い手となったのが石井監督だった。「徳川女系図」(68年)から始まり、「徳川女刑罰史」(同)、「徳川いれずみ師 責め地獄」(69年)など、いわゆる「異常性愛路線」で、残虐性、異常性を強調した見せ物小屋のような世界を描いてヒットさせた。

 江戸川乱歩を題材に、グロテスクな世界にさらに一歩踏み込んだ「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」(同)は、今ではキング・オブ・カルト石井監督の代表作の一つとなっている。

 遺作「盲獣vs一寸法師」(2004年)で撮影助手を務めた本田隆一監督(41)は、「大阪芸術大の学生のころ、『恐怖奇形人間』を見て衝撃を受けました。寺山修司などはカルトで前衛的だけど芸術的ですよね。だけど、石井監督はカルトで過激で、それが娯楽になっている」と語る。

 本田監督が学んだのは、職人監督としてのプロの姿勢。「重要なシーンはしっかり撮っても、そうでもない所はさっと切り上げる。限られた時間と予算の中で仕上げるところがすごい、と思いました」

 北海道・網走への愛着は大きかったのだろう。石井監督の遺志により、その墓碑は網走市に建てられた。碑文「安らかに 石井輝男」は高倉が筆を執った。



悪徳やタブーに見た美しさ…俳優 佐野史郎

 「ゲンセンカン主人」出演の時に初めて会いました。黒い服に、薄い色のサングラス。肌が白くて唇が薄い。ダンディーな吸血鬼みたいでした。

 撮影に入ってから降板した俳優がいました。その撮影は、「はい、カメラこっち。史郎ちゃんここから入って」と、その場で自由にやっているようでしたが、俳優が交代して同じ場面を再撮影したとき、構図もカット割りも全く同じなのに驚きました。頭の中に完成した映像がしっかり出来ていたんですね。

 誰もが目を背けるような、汚れたもの、悪徳やタブーといったところに光を当て、そこに美しいものを見る人でした。とてもエロでとても怖い、だけど笑ってしまう。そこが石井作品の魅力ですね。

 東アジアの作品を集めたウーディネ極東映画祭というのが、イタリア北部のウーディネというところで開かれています。2003年に石井輝男特集が行われ、監督から一緒に行こうと誘われました。「恐怖奇形人間」など熱狂的なスタンディング・オベーションになり、キング・オブ・カルトのヨーロッパでの人気ぶりに驚かされました。

 亡くなった知らせを聞いて駆けつけると、急に雨になりました。部屋に入ると青白い稲光が走り、横たわっていた監督の顔を照らしました。死ぬ時まですごい演出をするなあと思ったことが忘れられません。

 ◇いしい・てるお

 1924年、東京生まれ。早稲田実業中退後、東宝に撮影助手として入社。47年、東宝争議によって新東宝が発足したのに伴い、助監督部に入る。清水宏、成瀬巳喜男らに師事。57年、「リングの王者・栄光の世界」で監督デビュー。新東宝倒産と前後して、東映に移り、「網走番外地」シリーズなどを発表。「異常性愛路線」の作品は、発表当時は批判にさらされたが、今ではカルト的人気を誇る。93年、14年ぶりの映画「ゲンセンカン主人」を発表して話題になった。2005年、肺がんのため死去。

 ★主な作品

1960年 黄線地帯

  61年 花と嵐とギャング

  63年 昭和侠客伝

  64年 ならず者

  65年 顔役

  65年 網走番外地(~67年、全10作)

  69年 徳川いれずみ師 責め地獄

  69年 江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間

  93年 ゲンセンカン主人

  98年 ねじ式

 (編集委員 福永聖二)

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