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Nabari Ningaikyo Blog
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Posted by 中 相作 - 2010.10.31,Sun
 きのうのエントリの「陰獣」年表にいささかの解説を加えたいと思います。
 
 昭和3年5月5日、「新青年」6月臨時増大号が出ました。横溝正史が「『パノラマ島奇譚』と『陰獣』が出来る話」に書いているところです。つまり当時の「新青年」、毎月5日に出るならわしでした。その号にはヒュームの「二輪馬車の秘密」が掲載されていたのですが、翌6日、正史のもとに「二輪馬車の秘密」の批評を記した乱歩の手紙が届きます。それを読んだ正史は、前年3月から長い休筆をつづけていた乱歩がふたたび筆をとる気になったのだと直感し、翌日の7日か翌々日の8日、戸塚町源兵衛にあった乱歩の家を訪ねます。以下、昭和3年11月発表の「陰獣縁起」から引用。
 
 だから私は、久し振りのその飜訳の批評を読んだ時、直ぐにこれは彼が再び書く気になつたのだなと思つた。そこで早速、増刊へ百枚ぐらゐの読切を頼んだのである。一体江戸川乱歩は如何なる時でもはつきりと執筆を約束しない作家である。だからその時も、後から考へると、結局うやむやな約束しかして貰ふ事が出来なかつた。ところがいよいよ増刊の編輯が進行して来るに従つて、あまりにも貧弱なその内容に悲観した私は、改めて手紙を以つて懇願してみた、すると意外にも折返へし返事が来て、実は他の雑誌から頼まれて、今百枚ぐらゐのものを書いてゐるのだが、何ならそれを廻してもいゝと言つて来たのである。棚から牡丹餅とは全くこの事だ。私は早速原稿を貰ふために訪問したのである。
 それが即ち『陰獣』だつた。
 この小説は実は某雑誌社から頼まれて、一旦書いて渡してあつたのだが、意に満ないところがあつたので取返へして手を入れてゐるところへ、私の手紙が行つたものである。そこで早速『新青年』の方へ廻してくれる事に決心したものらしい。私が行くと、もう一度始めからすつかり書直して渡すと言つてくれたが、その時には題は『恐ろしき復讐』となつてゐた。
 
 このあたりの事情を乱歩のエッセイから拾ってみましょう。以下、昭和4年7月発表の「楽屋噺」から引用。
 
 さて、『陰獣』ですが、一年半も書かないでいると、新青年諸君には軽蔑されてもいいから、もう一度何か書いて見たいという慾望が起って来る。丁度その当時『改造』の佐藤績君がよく来られたので『改造』には一度も書いていないし、旁々一つ又古めかしい筋でも組立てて見ようと考えたのである。四五十枚という注文だったので、そのつもりでやりかけた所が、百枚書いてもまだおしまいにならない。縮めるなんてことは私には出来ないものだから、佐藤君に相談すると、百枚以内なら何とかするけれど、それを越しては一寸困るという話だ。ところが、私の方では書きついで見ると、二百枚近くにもなり相なので、それでは外へ廻しましょうということにして、そんなものを買ってくれるのは『新青年』の外にはないのだから、横溝君に伝えると、有難いことに、待ってましたというので、素敵に宣伝してくれたものだから、案外好評を博して、単行本にした時も仲々売れた。これ全く横溝君の巧みなる提燈持ちのお蔭である。先に私をペシャンコにしたのも横溝君なれば(尤も本人にそんな意志があった訳ではない)私に又書く気を起させたのも横溝君である。というのは、私の悪い癖の詭弁であろうか。
 
 正史が編集者として鋭く直感したとおり、乱歩は「もう一度何か書いて見たい」という気になっていました。ちょうど原稿依頼を受けていた「改造」に書き始めてみたところ、与えられた枚数をはるかにオーバーしてしまい、「改造」からもそんな長いのは載せられないと駄目が出た。そこで乱歩は迷わず正史に連絡しました。いつのことだったかというと、正史が乱歩に「改めて手紙を以つて懇願してみた」ときだったと見ておきましょう。正史は乱歩から「意外にも折返し返事が来て」と記していますが、その「返事」がすなわち乱歩のいう「横溝君に伝える」ということだったのではないか。伝えられた正史は勇躍して乱歩のもとを訪れます。以下、昭和50年7月発表の「『パノラマ島奇譚』と『陰獣』が出来る話」から引用。
 
 と、すると、それは六月末のことだったのであろう。するとまえにもいったように棚から牡丹餅のような返事がきたので、私は欣然として原稿を貰いにいったのだが、じっさいは原稿はまだ完成していなかったのである。
 私はそのときの情景を、いまでもかなりハッキリ記憶しているのだが、乱歩は五、六十枚の原稿を出してみせた。その原稿には短冊型に切った原稿用紙が、まるで御幣みたいに、あちこちに一杯ヒラヒラ貼りつけてあるのだった。つまりここはもう少し書き込むことだの、ここの部分にはこういうエピソードを挿入すべしだのという覚え書きだったのだろう。そして乱歩のいうのに、
 「この原稿は『改造』から頼まれて書いたのだが、枚数の件で折り合いがつかないんだ。ここにいろいろ書き込みがあるように、ぼくとしてはこの三倍、二百枚ちかく書きたいんだが、『改造』ではそれでは困るというので、君の方へ廻してもいいと思っている。内容はこれこれこういうもので、犯人はこれこれこういうもので、犯人はこれこれこうなんだ」
 私はそれを聞いて大いに驚き、ひと膝もふた膝もまえに乗り出したほどである。
 「乱歩さん、内容がそれでトリックがそういうものなら、たとえ『改造』が二百枚を許容するとしても、やっぱり『新青年』に発表なすったほうがええのンとちがいますか。ぼく大々的に宣伝してみせまっさかいに」
 
 最初に出てくる「それ」というのは、正史が乱歩にあらためて手紙で懇願したことを指しているのですが、実際には「六月末」よりもう少し早い時期だったのではないでしょうか。というのも、「陰獣」第一回を掲載した「新青年」夏期増刊号が発売されたのは7月21日のことでしたから、6月末にこんな状態ではとても間に合わなかったはずですし、「陰獣」の末尾に記入されていた「(昭和三・六・二五)」という脱稿の日付とも矛盾します。「陰獣」が「新青年」に掲載されると決まった時点では、「楽屋噺」によれば百枚、「陰獣縁起」によればまだ五、六十枚しか書けていなかったのですから、完成させるにはある程度の日数が必要だったものと思われます。
 
 しかも、「楽屋噺」では百枚書いたものをさらに書き継いだという印象ですが、「陰獣縁起」と「『パノラマ島奇譚』と『陰獣』が出来る話」では乱歩が「陰獣」を頭から書き直したことになっています。とくに後者によれば乱歩は五、六十枚まで書けていた初稿を横に置き、新たに原稿を書き始めたわけなのですが、もしかしたらその初稿は「いまでも乱歩家に保存されているのではないか」と正史は記しています。
 
 いまでも乱歩家に保存されているのではないか。
 
 いまでも乱歩家に保存されているのではないか。
 
 正史が記しているとおり、乱歩はその初稿を処分しなかったかもしれません。だとすれば、原稿用紙を短冊型に切った付箋が御幣みたいにひらひらしていた「陰獣」の初稿が、もしかしたらもしかして──
 
 いまでも乱歩家に保存されているのではないか。
 
 ほんとに残ってたらえらいことです。「陰獣」の成立過程をつぶさに知ることのできる得がたい資料が発見されたということになり、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターは上を下への大騒ぎ。しかしいまだ発見の一報はもたらされておりませんから、正史の「陰獣縁起」によれば「恐ろしき復讐」、乱歩の「探偵小説十年」によれば「恐ろしき勝利」というタイトルをつけられ、まるで御幣みたいであったという「陰獣」の初稿、とっくの昔に乱歩の手で処分されてしまっているのかもしれません。
 
 それはそれとして、気になるのは正史の真意です。乱歩がまた書く気になっていることを見抜き、足を運んで百枚の作品を依頼したものの、乱歩は曖昧な答えしか返さない。後日あらためて催促してみると、じつは「改造」に書いている作品があるからそれを廻そうか、という返事。それを聞いて、正史はかちんと来なかったのでしょうか。休筆明け第一作は当然「新青年」にもらえると正史は踏んでいたはずで、ところが実際にはこっそり「改造」で再起する話が進んでいたという寸法です。そらあんまりやで乱歩さん、と正史は思わなかったのでしょうか。たぶん思ったと私は思います。私が正史だったら、きっとそう思っていました。しかも「改造」かよ、谷崎が「卍」連載中の「改造」かよ、とも私なら思っていたはずです。そら「新青年」よりは「改造」のほうがグレードとかステータスとかゆうもんが上でおまっさかいなあ、とひがみっぽく思っていたはずです。乱歩さんえらいまたご出世で、としつこくも皮肉っぽいことも。
 
 むろん正史は、かちんと来たなんてことをどこにも記していません。当時の正史はとりあえず夏期増刊号の編集作業に追われ、何より「陰獣」という作品に感嘆し、それを編集者として全力でバックアップすることに大いなる喜びを感じていたはずであるとは思われるのですが、しかし、全然かちんと来なかったということもなかったのではないか。げんに「陰獣縁起」では、「陰獣」の原稿がいったん完成して「某雑誌社」に渡っていたということになっており、それを自分が「新青年」に廻してもらったのであると手柄話めいた改変が加えられているのですが、この改変の背後に乱歩と「改造」とに対する正史の複雑な感情を垣間見ることはできないでしょうか。あるいは、「改造」がたとえ二百枚になっても乱歩の作品を掲載していたら、と仮定してみたらどうでしょう。正史はある朝、「改造」の新聞広告に乱歩の名前を発見して血相を変えていたはずです。「新青年」がいくら依頼しても曖昧な返事しかしなかったくせに、その裏で再起第一作を「改造」に発表する話は着々と進めていやがったのか、と激昂激怒し、新聞を鷲掴みにして乱歩の家に駈けつけていたのではなかったかと思われます。
 
 正史はやはり、多少はかちんと来ていたのではないか、というのが私の結論であり、そうした感情のもつれが翌年、すなわち昭和4年2月発行の「新青年」新春増刊号に正史をして「双生児」を書かせたのではないか、というのが私の推測です。この作品は冒頭に英文で「A sequel to the story of same subject by Mr. Rampo Edogawa.」と記され、つまり乱歩が大正13年の「新青年」10月秋季増大号に発表した「双生児」と同じ主題による続篇であると明かされているのですが、どうしてどうして、これはかちんと来た正史による乱歩に対する批判ではないのか、みたいなことを来月の講演で口走ろうかなと考えておりますので、ご都合よろしければみなさんどうぞお運びください。
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