Nabari Ningaikyo Blog
Posted by 中 相作 - 2010.10.27,Wed
乱歩と本格(9)
昭和10年夏に再燃したという本格探偵小説への情熱は、その後の乱歩の文業にどんなふうに反映されたのか。この年の秋から冬にかけて発表された本格がらみの文章を見ておきましょう。
9月、「ぷろふいる」に「鬼の言葉」第一回「『赤毛のレドメイン一家』」。
9月、春秋社『日本探偵小説傑作集』に「日本の探偵小説」。
9月、読売新聞に「探偵小説壇の新なる情熱」。
10月、「改造」に「日本探偵小説の多様性について」。
10月、「新青年」に「ハアリヒの方向」。
10月、「ぷろふいる」に「鬼の言葉」第二回「芸術派本格探偵小説/ヴァン・ダイン氏の探偵小説論」。
10月、柳香書院「世界探偵名作全集」の付録雑誌「クルー」第一輯に「監輯者の言葉」。
11月、「ぷろふいる」に「鬼の言葉」第三回「定義試案/探偵小説の四形式/広義の探偵小説」。
12月、「ぷろふいる」に「鬼の言葉」第四回「スリルの説」。
12月、「文芸通信」に「探偵小説界への希望」。
「ハアリヒの方向」によれば、『日本探偵小説傑作集』の編纂や「世界探偵名作全集」の監修のために内外の探偵小説をたくさん読み、いろいろな感想を抱いたけれど、「その主な一つをここに云うと、分り切ったことのようではあるが『余りにも探偵小説的な英米もの、そして、余りにも非探偵小説的な日本のもの』という今更らの感想であった」とのことで、乱歩は「日本の短篇は一般に文学上の技巧と文章とでは世界的に優れているが、謎と論理とではまだ子供にしか過ぎない」との認識を示しています。
さらに、「私はそうして日本の本格探偵小説の(殊に長篇の)行くべき道というようなことを考えて見たのであるが、常識的な形式論理を軽蔑し勝ちな日本人の性分から考えると、仮令そこに論理と文学との調和があっても、フィルポッツやベントリの道は我々のものではない。又、ミルン、チェスタトンの道も、殊に長篇小説としては余り多くの余地を残していない」として、ワルター・ハーリヒの「妖女ドレッテ」を例にあげ、「あの方向にこそ、まことに豊饒な我々に未開拓の土地が残されているのではないか」と述べているのですが、「妖女ドレッテ」を読んだことのない身としてはどんな方向なんだかもうひとつよくわからず、しかし乱歩が「日本人の性分」に「謎と論理」は向いてないと考えていたことよくわかります。つまり、本格には向かない性分、みたいな。
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