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Posted by 中 相作 - 2012.08.05,Sun

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Walkerplus

 平成24・2012年7月31日 角川マガジンズ

 

【WEB連載】すべては、角川映画からはじまった。第1回「犬神家の一族」前編(その1)文=中川右介

 中川右介

 Home > ニュースウォーカー > 映画 > 記事

 

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【WEB連載】すべては、角川映画からはじまった。第1回「犬神家の一族」前編(その1)文=中川右介

 

2012年7月31日

 

20120805a.jpg

 

金田一耕肋を演じるのは石坂浩二(左)。袴姿にぼさぼさの髪型と原作に忠実な風貌で演じた。右は弁護士役の小澤栄太郎

(C)1976角川映画

 

 これから、角川映画について書いていく。この連載でいう「角川映画」は、現在の角川映画のことではなく、1976年から90年代初頭までの角川映画だ。私にとっては、高校生から大学生、そして社会人になって数年という時代に当たる。まさに、「わが青春の角川映画」なのだが、この、いまでは歴史的作品となってしまった映画について、作品解説でもあり、世相史でもあり、個人の懐旧譚でもありという、そういうものを書いてみたい。

 

 ◆低迷していた日本映画界

 

 70年代半ば、日本映画界は低迷していた。戦後の映画界は、松竹、東宝、東映、日活、大映という5社が、それぞれ撮影所を持ち、配給網を持ち、直営映画館を持っていた。監督も脚本家も、スターから大部屋までの俳優をも専属で抱え、もちろん撮影所の大道具・小道具、照明、衣装といったすべてのスタッフは映画会社の社員――このような垂直統合型のビジネスモデルだった。

 

 だが、テレビの普及と共に映画界は斜陽化する。*1日活はロマンポルノ路線へ転向、大映は71年に倒産し、74年からは徳間書店の傘下で再出発することになった(はるか後、2002年に、徳間は大映を角川書店に売却し、今日の角川映画となるが、それはまた別の話だ)。

 

 残る3社も、東映の時代劇黄金時代は過去となり、それに代わる任侠路線も終わり、『仁義なき戦い』に始まる実録路線も行き詰まろうとしており、その主役だった菅原文太の『トラック野郎』シリーズが安定しているくらいだった。松竹は『男はつらいよ』シリーズでもっている状況だ。東宝は早くから製作と配給・興行を分離させる合理化に取り組み、製作会社を子会社化していた。そのため、企画に柔軟性があり、経営は安定していた。

 

 ◆忘れられていた巨匠

 

 このように日本映画が低迷しているなか、当時の角川書店の社長だった角川春樹は映画製作に乗り出した。その第1作が76年秋公開の『犬神家の一族』だった。この映画が大ヒットしたことにより、日本映画界は大きく変わっていく。それだけではなく、出版の世界にも変革は波及し、そして何よりも、ミステリとSFを中心としたエンターテインメント小説全般にも大きな影響を及ぼした。そして後には歌謡曲、アイドルの世界まで動かしていく。

 

 角川文庫が横溝正史作品を発行し始めたのは、71年4月の『八つ墓村』が最初だ。以後、『悪魔の手毬唄』『獄門島』『悪魔が来りて笛を吹く』と続いて、『犬神家の一族』は5冊目に当たり、72年6月に刊行された。この刊行の順番は作品が書かれた順ではない。「売れそうな順」だ。*2最初の5冊はすべてこの後に映画化されるが、初めから映画にしようと考えていたわけでもない。そもそも、まだ「角川映画」は存在しないのだ。

 

 日本の探偵小説の歴史における二大巨匠は江戸川乱歩と横溝正史だが、私の少年時代、つまり60年代は江戸川乱歩と明智小五郎はクラスメートの誰もが知っていたが、横溝正史と金田一耕助は誰も知らなかったと言っていい。私自身、乱歩の少年探偵シリーズは全て読んでいたが、小学生時代、横溝はその名すら知らなかった。時代は松本清張を代表とする社会派ミステリの全盛期だったのだ。

 

 横溝は60年代はほぼ忘れられていた。新作は旧作の中編を長編にしたものが数点あるだけだった。それが、まず70年に講談社が「横溝正史全集」全10巻を刊行し、横溝自身が『真説金田一耕助』*3で「それが思いのほか好評を博し」と書くように、よく売れた。「そのことが呼び水になったかして、私の作品が順次別の出版社から文庫本として出はじめた」のだ。

 

 その「別の出版社」こそが角川書店だった。角川文庫はライバルの新潮文庫に対抗しようと、ミステリやSFといったエンターテインメント路線を開拓していたのだ。狙いは当たり、角川文庫の横溝作品は版を重ねた。そして、映画化の話が来る。だが、それは、『犬神家~』ではない。

 

 (第2回続く)※2012年8/21頃更新予定

 

 ★中川右介プロフィール:「クラシックジャーナル」編集長。1960年生まれ。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲などの著書多数。主な著書に『大女優物語』(新潮新書)『山口百恵 赤と青とイミテイション・ゴールドと 』(朝日文庫)など

 

 <文章注>*1:日本の映画の観客動員のピークは1985年の11億2745万人で、当時の日本の人口は9000万人台なので、ひとりが一年に11回以上、映画館に足を運んでいたことになる。これが翌年の「皇太子ご成婚」によりテレビが普及したことによって激減し、1975年には1億7402万人にまで減っていた。

 

 70年代に入ると五社体制は崩壊していた。スター俳優や映画監督は自らの意志、あるいは合理化により専属契約を解除し、フリーになり、なかには自分のプロダクションを設立する者もいた。そして、多くの才能がテレビ界に流れた。

 

 *2: 横溝著『真説 金田一耕助』にはの前後の事情について、こうある。

 

 【たまたま昭和四十六年の春、「八つ墓村」が角川文庫にとりあげられたところ、それが意外な売れ行きを示して、またたくまに十万までいった。

 

 そのとき中島河太郎氏が私にいった。

 

 「いまどきどういう読者が『八つ墓村』を読むんでしょうねえ」

 

 その時点では推理小説に全然無垢な若い、新しい読者がとびついてきたのだとは、まだわかっていなかったのである。推理文壇に対して、岡目八目的存在であるはずの中島河太郎にすらわからなかったくらいだから、当の本人にわかりようがない。大変奇異な思いをしていると、「八つ墓村」が当たったについて、あれもこれもと求められるままに渡しているうちに、だんだん点数がふえていった。出版社のほうではよいものから順に名指してくるのだから、点数がふえるらしたがって、質が定価していくのは理の当然である。そのことはわれらの仲間、大内茂男なども早くから指摘しているとおりだが、こっちもおいおい気恥ずかしくなって、「ええ加減にしてくださいよ。これ以上出すと、おたくのコケンにかかわりますよ」と、尻込みしても、相手はなにしろ織田信長を気取り、高杉晋作を身近に感じるという角川春樹のことだから、私みたいなカボソイ神経の持ち主では太刀打ちできない。押しの強いことでは天下一品のこの若大将に、うわめ遣いにねだられると、私はあわれ愍然、たちどころに腰砕けになってイイダクダク、とうとう総数四十点ということになってしまった。】 この時点では、四十点だが、この後、角川文庫の横溝作品はさらに増えていく。

 

 *3:「真説 金田一耕助」 毎日新聞に1976年9月から翌年8月まで連載されたエッセイ。街日新聞社から刊行された後、1979年1月に角川文庫に。

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