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Nabari Ningaikyo Blog
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Posted by 中 相作 - 2010.09.24,Fri
 あれって何? というお問い合わせのメールをいただきましたので、いささかの説明を加えたいと思います。あれ、というのはこのエントリのことです。
 
 RAMPO Up-To-Date:書籍:絵図からみた上野城(2010年9月20日)
 
 エントリから地図を転載。
 
 ■20100920a.jpg
 
 「享保年間城下町図」とあります。伊賀上野のまちの地図です。伊賀というのはかつての伊賀の国で、いわゆる伊賀の忍びの本拠地、いまの地名でいえば三重県の伊賀市と名張市とにあたり、この地図は伊賀市中心市街地の享保年間(1716ー36)の姿を記録したもの、ということになります。
 
 ちなみにこの地図、記されているとおり「沖森直三郎氏蔵」の古地図にもとづき、『地図からみた上野城』著者の福井健二さんが作図されたものです。沖森直三郎さんは伊賀上野のまちで長く古書肆を営み、郷土史研究の世界で重きをなした人でした。戦後初の古書目録を発行したことでも知られ、谷沢永一さんの『紙つぶて(完全版)』(1999年3月15日第一版第一刷、PHP文庫)をひもとくならば、「埋もれた名著発掘(44・9・12)」の項にこう記されています。
 
▽文車の会の調査によると、戦後に全国最初の目録を出したのは、二十年十二月、伊賀上野市の沖森書店で、A5判三十二頁活版印刷、当時としては堂々たるものであった。沖森直三郎は、明治大正期を通じて全国屈指の大古書店だった大阪の鹿田松雲堂出身、戦後の再起に当って大阪商人の根性を見せた快挙ともいえる。
 
 その沖森さんが所蔵していた古い地図には、乱歩の先祖の名が記されています。乱歩は昭和10年、「人は生涯のある時期に一度は、その祖先に興味を持つものである」という書き出しで三人称による自伝「彼」の連載を始め、しかし早々に投げ出してしまうのですが、その冒頭で先祖の来歴を紹介しています。乱歩の家、つまり平井家の初代にあたる友益は伊豆伊東の郷士でしたが、あるきっかけから津藩藤堂家に召し抱えられ、「二代目陳救というものの代になって、元禄元年御国附となり、後正徳三年に正式に伊勢の津へ移住した。この陳救という人が、僅かの間に恐ろしく出世をしている」と乱歩は記しています。
 
 乱歩の述べているところを年表にしてみましょう。
 
寛文9年(1669) 初代友益、藤堂家に召し抱えられる。二十両六人扶持。江戸屋敷に勤務。
 
天和2年(1682) 二代陳救、御小性役として二十石五人扶持となる。
 
貞享2年(1685) 陳救、百石となる。
 
元禄元年(1688) 陳救、御国附となる。
 
元禄10年(1697) 陳救、加増百石。
 
宝永4年(1707) 陳救、八百石を加増され、千石となる。
 
正徳3年(1713) 陳救、江戸から津へ移住。
 
 平井家初代が藤堂家に抱えられた経緯は「彼」や昭和30年の「祖先発見記」でお読みいただくとして、破格の出世をとげた二代目の陳救は御国附を願い出て江戸から津へ移住、そのあと伊賀附となって伊賀上野のまちに住みました。ですから享保年間(1716ー36)の城下町図にその名が記されているわけなのですが、しかしそれにしても、と不審にお思いの諸兄姉もいらっしゃるかもしれません。陳救が伊賀附になったことなど、乱歩はどこにも記していないではないか、と。
 
 これにはちょっと事情があって、じつは先年、正確にいえば2008年秋のことですが、ご遺族に無理をお願いして平井家の家系図を拝見する機会をたまわりました。機会をたまわったといいますか、家系図の写真を収めた CD-ROM を頂戴するという望外の僥倖に恵まれた次第で、かくなるうえは乱歩と伊賀ならびに津という土地との関わりを近世にまでさかのぼって簡潔にまとめ、ご遺族のご承諾をいただいたうえで公表するのが務めではないかと思ってはいるのですが、実際にはなんだかなかなか、いやはや。
 
 それはまあそれとして、家系図によれば二代目の陳救は幼名が平三郎、天和2年(1682)に跡目を相続し、乱歩によれば元禄元年(1688)に御国附となっていますが、これは正確にはこの年、御国附だった藤堂監物という藩士の組に配属されたということらしく、その後、正徳3年(1713)にみずから御国附を願い出て叶えられ、翌年正月に江戸から津へ移住、しかしその翌年の正徳5年(1715)に伊賀附を命じられ、今度は津から伊賀へと転居、そのまま伊賀上野でお城勤めをつづけ、享保18年(1733)12月11日に没したというのが家系図から知られるところです。
 
 この陳救、宝永4年(1707)に千石取りとなったとき、藩主から隼人という名前も与えられました。ですから『絵図からみた上野城』の「享保年間城下町図」には平井隼人という名前でその住まいが記録されています。場所は廣禅寺というお寺の近く。そのお寺を中心にした現在の地図はこんな感じです。
 
 
 なんですか平井家の私事を勝手に暴き立てているような気がしてきて困ったものですが、乱歩のご先祖さまが暮らしていた伊賀上野の城下町、機会があれば散策をお楽しみいただくのも一興かと思います。
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