Nabari Ningaikyo Blog
Posted by 中 相作 - 2011.01.13,Thu
横溝正史と江戸川乱歩(8)
このエントリのタイトルは「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」のもじりなわけなのですが、そんなことに気づいてくれる人はたぶんひとりも存在しないであろうと思われますので、ここにあらかじめその旨を明かしておきたいと思います。
先日、こういったコメントをありがたく頂戴しました。
▼昭和3年「陰獣」年表(2010年10月30日)> 面白いです(2011年1月10日)
そこで「陰獣」前夜の正史と乱歩、そして竹中英太郎のことを考えてみることにいたしました。
昭和3年の5月ごろ、英太郎は白井喬二の紹介状を手に博文館の正史を訪ねました。ホームグラウンドだった「苦楽」がこの年の5月号を最後に廃刊となったため、英太郎は新たなグラウンドを見つける必要に迫られていました。小石川戸崎町の博文館で、英太郎は初対面の正史から原稿を手渡され、挿絵を依頼されます。その作品こそは乱歩の「陰獣」であった、と英太郎は記しているのですが、すでに見たとおり英太郎が「新青年」に登場したのはこの年7月号のことで、川崎七郎「桐屋敷の殺人事件」と甲賀三郎「瑠璃王の瑠璃玉」の二作品に挿絵を描いて「新青年」デビューを飾りました。
川崎七郎というのは正史が「桐屋敷の殺人事件」だけに使用した筆名で、川崎という姓は生まれ育った東川崎町に由来するものだと思われます。ならば七郎は何にちなむか。正史が一時そこの主人におさまっていた薬局があったのは東川崎町の七丁目だったからではないか、というのが私の推測です。なんで七郎なんだろう、なんてことは考えてみたこともなかったのですが、忘れもしない昨年11月23日、横溝正史生誕地碑建立六周年記念イベントの会場となった東川崎地域福祉センターまでJR神戸駅からふらふらふらふら足を運んでいたとき、正史の薬局があったあたりでふと眼についた住居表示によればそのあたりは東川崎町七丁目らしいではありませんか。
さすがにぴんと来ましたのでイベント会場でお会いした地元自治会長さんにお訊きしてみたところ、正史の薬局があったのはまさしく東川崎町七丁目であるとのことでした。昭和3年から現在まで住居表示に変更が加えられていないのかという点の確認を忘れていた迂闊さは、なんといえばいいのかまあわれながら可愛いものだなということにしておきたいと思います。
その当時、というのは「新青年」の昭和3年の年頭から春にかけてのことですが、正史は初めて経験する東京の冬にかなりまいっていたみたいで、「新青年」6月号巻末の「編輯局より」ではこんな嘆きを嘆いています。
◆神戸に育つたせゐか、東京の冬にあふと僕はすつかりくさつて了ふ。雪を見ると第一心臓が縮つて了ふ程の恐怖を覚える。あんなものを風流だとか、雅だとか言つて愛でてゐた昔の江戸児の気持ちなど僕にはよく分らないものゝ一つである。一月、二月、三月、ト東京の冬は何んていやなんだらう。
東京のいやな冬を過ごしたあとでかりそめの筆名をひねり出す必要に迫られたとき、正史の視線は生まれ育った神戸に投げられたという寸法です。川崎七郎なる筆名には当時の正史が神戸にどんなまなざしを送っていたのかが端的に示されているわけで、私は昨年11月23日の講演「横溝正史と江戸川乱歩」で川崎七郎という名前は東川崎町七丁目にちなむものであると話したりもしたのですが、いまからついつい思いあがって考えるとあの話柄は地元のみなさんへの何よりのおみやげになったのではなかったかしら。
そんなことはともかく、川崎七郎という筆名の謎はこれできれいに解明できたのではないかと自負している次第ではあり、そういう意味ではもしかしたらこのエントリ、「なぜ川崎七郎に頼んだのか」ではなくて「謎の川崎七郎」というタイトルにしたほうがよかったのかもしれません。これはもちろん「謎のエヴァンス」のもじりなわけですが。しっかしまあなんなんだか。
つづく。
【2011年1月14日追記】下記のエントリをどうぞ。
▼こんなところに川崎七郎(2011年1月14日)
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