連休が明けた。
しばらく忘れとったけど、あの一件はどうなったのであろうか、と思って、まちBBSの名張市スレをのぞいてみると、削除の嵐は完全におさまっておった。
▼○名張市について書き込んでみましょうPART13○:最新レス50
先月30日を最後に、一件の削除もおこなわれていない。
このスレッド、震災がれきの県内受け入れ問題で、一時は結構盛りあがっとったんやけど、結局のところ、削除屋さん、大勝利。
ならば、2ちゃんねるはどうよ。
ざっと検索してみたら、鬼女板にこんなスレがあった程度だ。
▼【断固】三重がれき受け入れ反対の奥様【阻止】:最新50
念のため、鬼女板のスレタイを「がれき」で検索したら、こんなのもひっかかってきた。
▼【断固】愛知がれき受け入れに反対の奥様【阻止】:最新50
▼■放射能がれき処理で、故郷を売る市長・知事■:最新50
盛りあがっとらんな。
名張市内でも、あたいの知るかぎりでは、まったく盛りあがってない。
それはまあ、名張市内にはそもそも、がれきを処理する施設がないから、あたかも対岸の火事のごとし、ということなのかもしれん。
しかし、おとなりの伊賀市には施設があって、そういえば、伊賀市の市長さんが無茶苦茶なことをおっしゃっておったではないか、と思ってアクセスしてみたら、すでにリンク切れとなっておった。
▼朝日新聞デジタル:県「市町と一体で」 指針策定の動き加速(2012年4月21日)
しゃーないから、キャッシュでどうぞ。
▼Google:県「市町と一体で」 指針策定の動き加速(2012年5月3日)
な。
先日もあきれ返りつつ指摘したけど、伊賀市の市長はん、こんなこといわはったんえ。
焼却灰の民間のリサイクル業者がある伊賀市の内保博仁市長は「業者の取り扱う灰が減っている」と明かし、「国と県がお願いするというのなら、期待する」と話した。
なんか、ちょっと、まずくね?
震災がれきを受け入れるかどうか、という重要な問題にかんしてコメントするのであれば、安全性がどうのこうの、みたいなことをとりあえずあれするのがなになのであって、こんちこれまた手前どもではリサイクル業者がちょいと困っておりまして、とかいきなり業者の都合をもちだしたりするのは、相当まずくね? と思う。
なんか、伊賀市の隣接自治体である名張市の市民としては、大丈夫かおい、という気がしないでもない。
今年の11月には伊賀市長選挙があるんだけど、どうなるのであろうな。
伊賀市といえば、とはいえ、おなじ伊賀でも話はころっと変わってしまうのだが、伊賀つながりで話を進めると、伊賀文化産業協会が『名張藤堂宮内家家老 鎌田将監家文書』をまとめた。
これだ。
A4判、百三十二ページで、奥付発行日は3月20日。
伊賀文化産業協会は、伊賀市の上野公園にそびえ立つ上野城を管理運営する公益財団法人で、じつはあたい、十日ほど前、津藩の藩士だった乱歩のご先祖さまのことでいろいろ教えていただくべく、上野城に登城した次第である。
登城した、なんていうと、なんか武士みたいで、かっこいいと思う。
津藩で使用されていた役職名ひとつとっても、なんだか意味不明、みたいなことが少なからずあるんだけど、さっぱりわかんなかったのは、乱歩のおじいさんの最初の奥さんのお父さんのことだ。
乱歩は「父母のこと」という随筆に、乱歩のおじいさんの最初の奥さんは「殿様の息女」であったと記している。
つまり、乱歩のおじいさんは、主君の娘を妻に迎えた、ということになる。
乱歩のおじいさんが仕えたのは、津藩第十一代藩主、藤堂高猷(たかゆき)だ。
高猷といえば、慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いにおいて、幕府軍から突如として新政府軍に鞍替えし、「寝返りの藤堂」の名をほしいままにしたお殿さまであったのだが、乱歩のおじいさんより三歳年下だから、そのお姫さまが乱歩のおじいさんの奥さんになった、というのは、むろんありえない話ではないけれど、ちょっと考えにくいことなのではないか。
そもそも、乱歩が「殿様の息女」と書いた根拠はなにか、というと、乱歩の家の家系図であって、そこにはたしかに、乱歩のおじいさんの後妻、つまり乱歩のおばあさんだった和佐という女性にかんして、「和佐ハ殿息女タリシ先室ニ遠慮シ『妾』ト称ス」と書かれている。
すなわち、乱歩のおばあさんは正式な奥さんだったんだけど、先妻が「殿息女」だったことに遠慮して、おめかけさんということになっていた、ということだ。
家系図にはもちろん、先妻のことも記されていて、「高允公御女」とある。
高允(たかのり)というのは、第十代藩主だった高兌(たかさわ)の弟で、乱歩が仕えた高猷の叔父にあたる人物だ。
だから、お殿さまではない。
お殿さまではない人物のお嬢さんが、どうして「殿息女」なのか。
なんとも不可思議である。
ご参考までに、ウィキペディアの「藤堂家」から家系図の一部を転載しておく。
なんかもう、わけわかんね、というしかないので、上野城に登城して、いろいろご教示を仰いだ次第であった。
そのとき、3月に出された『名張藤堂宮内家家老 鎌田将監家文書』という本のことも教えていただいた。
本、というより、ありていにいえば、分厚い冊子である。
いったいどんな内容か。
巻頭の「はじめに」によれば、2009年12月、さる古物商から伊賀文化産業協会にたいし、名張藤堂家の家老、鎌田将監家の文書類がたくさんあるから購入してほしい、との依頼があった。
協会が現物を確認したところ、貴重な文書がたくさんあったので、購入することになった。
購入したうえで、文書を解読し、整理し、体系化し、印刷物として世に出したのが、この『名張藤堂宮内家家老 鎌田将監家文書』である、とのことである。
これもまた、なんかもう、わけわかんね、という話だよね。
なぜか、というと、名張藤堂家の関連資料だというのであれば、名張市が入手して管理し、適切に活用するのが本来だからである。
なんなんだろうな。
名張市はいったい、なにをやっとるのであろうな。
ほんと、わーけわかんねーよ。
つづく。
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