先日、4月23日のことですが、日本推理作家協会賞の今年度受賞作が決まりました。「RAMPO Up-To-Date 2012」に録するため日本推理作家協会の公式サイトにアクセスし、受賞のデータを確認したあとサイト内をあっちこっち閲覧しておりましたところ、なんとこんなページが。
▼日本推理作家協会:日本推理作家協会会報 > 2012年2月号 > ミステリー批評の周辺
2010年9月25日に催された第百七十七回土曜サロンの報告ですが、権田萬治先生のお話に私の名前がいきなり出てきて、ちょっとびっくりいたしました。
江戸川乱歩は、『探偵小説の定義と分類』で、探偵小説を「主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」と定義しています。この定義について、気鋭の乱歩研究者の中相作さんは、「難解な秘密」という言葉は「難解な謎」とする方がすっきりするように思うというご意見をお持ちのようです。しかし、この「秘密」は、英語でいうとMysteryに近い言葉で、私はこれは乱歩の苦渋の選択ではないかと考えています。乱歩は論理的な謎解きを非常に大切なものと考えていましたが、自分自身が本格を次第に書けなくなったことに加え、怪奇幻想小説などのいわゆる変格に配慮する必要もあったため、なるべく幅を広くとって「秘密」という言葉を使ったのではないか、そんなふうに思います。
気鋭の乱歩研究者たる私が、しかし気鋭ったって来年還暦なわけなんですが、あまねく知られた乱歩の定義に難癖をつけたのは2009年10月3日、池袋のミステリー文学資料館で催されたトーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」第一回でのことでした。当時の館長でいらっしゃった権田先生から講師役を仰せつかり、「涙香、『新青年』、乱歩」というタイトルで一時間ほどお話ししたのですが、権田先生はそのときのことを憶えていてくださって、ほぼ一年後の土曜サロンで枕にしていただいたというわけです。
なんか嬉しい。といいますのもじつはこの難癖、われながらすごい発見だと悦に入り、ここに乱歩という作家の本質がはしなくも露呈されているとさえ信じてまったく疑わない次第なのですが、どうもミステリファンの心に響かない指摘であるらしく、そういえば昨年11月26日、横溝正史の生誕地碑建立七周年記念イベントで講師を務めたときにもこの点を力説したつもりながら、この指摘を面白がってくださる方はわずかにおひとりだったという惨憺たる状態でしたので、権田先生が憶えてくださっていたのは素直に嬉しいことでした。
去年の講演のことはこのあたりに記してあるのですが、やはり難癖をしつこく主張しております。
▼2011年11月27日:花と散ってまいりました
▼2011年11月28日:日本探偵小説史戦前篇
▼2011年11月29日:日本探偵小説史戦後篇
▼2011年11月30日:勉強し直してまいります
さてそれで、権田先生からご意見をいただいたいまもなお、乱歩の定義に関する私の考えに変化はありませんので、ここに再説しておきたいと思います。
権田先生は乱歩のいう「秘密」が「英語でいうとMysteryに近い言葉」であると仰せですが、秘密を英語に訳せば一般的にはシークレットになるはずで、ミステリーに近いとすることにはやや無理があるように思います。乱歩ができるだけ幅の広い語義を与えたいと考えていたのだとしても、秘密ではなく謎という言葉に怪奇や幻想まで含めてしまうほうがそれこそすっきりするように思われます。ボアロ&ナルスジャックによる「謎と恐怖の両義性の文学」という定義だって謎という要素は認めているわけで、謎を秘密に置き換えると「秘密と恐怖の両義性の文学」となってしまって、これでは探偵小説から大きくかけ離れてしまうことになるはずです。
乱歩の定義は『幻影城』巻頭の「探偵小説の定義と類別」に記されたものですが、それはいわば決定版で、定義の試みは「ぷろふいる」昭和10年11月号の「探偵小説の範囲と種類」に「定義試案」として発表されています。昭和10年といえば『探偵小説四十年』に「十年の夏から翌十一年にかけて、あるきっかけから、私の心中に本格探偵小説への情熱(といっても、書く方のでなく、読む方の情熱なのだが)が再燃して」と打ち明けられている年で、だからこそ乱歩は探偵小説を定義する試みにも手を染めたと見るべきであり、そこには「ミステリーの幅広い範囲に網をかけたい」とする意志はなかったのではないかと思われます。げんに乱歩は「探偵小説の範囲と種類」をこんなふうに結んでいます。
探偵小説はあくまで探偵小説であって、犯罪小説でも怪奇小説でもないのだけれどそれだからと云って、探偵作家たるものは探偵作品以外のものを書くべからずという杓子定規が成り立たないことは云うまでもない。書いてはいけないどころか、個々の作家の素質と嗜好の赴くままに、それらの親類筋の文学に手を伸ばすことは大変望ましいのである。個人の立場としては、探偵小説であろうとなかろうと、優秀な作品を生むことが最大の関心事でなければならない。しかし又、そういう作家が、自分は探偵小説家であるから、自分の書くものはみんな探偵小説だと強弁するのも間違っていることは云うまでもない。さような強弁が探偵小説の意義を一層混乱させていることも確かである。
昭和10年当時の乱歩にはまさしく混乱めいたところがあって、探偵小説の読者としては本格探偵小説に至高の価値を認めながら、日本探偵小説界のリーダーとしてはたとえば昭和10年9月の「探偵小説壇の新なる情熱」にあるとおり「日本の探偵小説はその作風の多様性においては、英米にも見ることのできない特殊の発達を示している」という現状を肯定する、というよりは肯定せざるを得ない立場にありました。『鬼の言葉』巻頭に収録された昭和10年10月の「日本探偵小説の多様性について」にはこんな断言が見られます。
日本の探偵小説の過半数は本当の探偵小説でないということが云われている。私自身もこの説には同意を表するもので、探偵小説であるからには、探偵的な興味、つまりある難解な秘密を、なるべく論理的に、徐々に探り出して行く経路の面白さというものが主眼になっていなければならない。そのほかのいわゆる探偵小説、たとえば異常な犯罪の経路を描いたもの、犯罪その他異常な事件の恐怖を主眼とするもの、怪奇なる人生の一断面を描いたもの、精神病者又は変質者の生活を描いたもの、ビーストンふうの「意外」の快感に重点を置くものなどは、犯罪小説、怪奇小説、恐怖小説などに属するものであって、探偵小説とは云えない。
じつに明快です。乱歩は「親類筋の文学」や「いわゆる探偵小説」を除外することで探偵小説にくっきりした輪郭を与えています。そこには権田先生がおっしゃるような「いわゆる変格」への配慮も、「なるべく幅を広く」といった意図も見られません。しかもこの「日本探偵小説の多様性について」にも「難解な秘密」というフレーズが登場しているのですが、私にはそれが「苦渋の選択」の結果などではなく、不用意な混同の結果であるとしか思えません。乱歩は謎と秘密とを混同しており、しかも謎よりは秘密にこそ強く惹かれる人間だったのではないかと愚考される次第なのですが、混同といえば昭和35年9月に発表された「トリックについて」の冒頭にはこんな混同が見られます。
私はかつて推理小説を定義して、「推理小説とは主として犯罪に関する難解な謎が論理的に徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」と書いたことがあり、今日でも純推理小説に関する限り、この定義は正しいと考えている。
かつての「難解な秘密」がここでは「難解な謎」となっていて、まさに不用意な混同が生じています。当時の乱歩は六十五歳、老耄によって血のめぐりが悪くなっていた可能性がないでもないのですが、乱歩の脳内ではもともと謎と秘密とが混同されがちだったと考えたほうが自然ではないでしょうか。
ここで定義の試案と決定版を引用しておくことにして、まず定義試案はこうでした。
探偵小説とは難解な秘密が多かれ少なかれ論理的に徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である。
つづいて、試案からおよそ十五年後の決定版。
探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である。
微妙な修正は加えられているものの「難解な秘密」というフレーズには変化がないことを確認した上でしつこくも難癖をつけておきますと、この定義にある「秘密」は本来は「謎」であるべきだと気鋭にして還暦目前の乱歩研究者たる私は思います。
それはそれとして、こうした難癖に思い至ったのも権田萬治先生から講師役を仰せつかったことがきっかけだったわけであり、土曜サロンでご高評をたまわったこととあわせて先生への謝意を表しつつ、乱歩の定義についての再説を終えることといたします。
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