山田風太郎の『あと千回の晩飯』、角川文庫版をばらばらと眺めた。
二年前にも眺めたことがあった。
こんなことがあったからだ。
▼名張まちなかブログ:多島斗志之さんが伊賀に?(2010年1月11日)
アクセスしてみたところ、ご家族のブログは、昨年末で閉鎖されていた。
▼父、多島斗志之を探しています。ブログを閉鎖させていただきます。(2011年12月31日)
多島さん、やはり、自死を遂げられたのか。
なんか、やりきれんな。
やりきれんな、と思いつつ、不謹慎かもしれない話題をさらにつづると、二年前、朝日文庫版『あと千回の晩飯』を手に取ったのは、多島さん失踪のニュースから連想して、山田風太郎が安楽死施設について書いていたことを思い出したからだ。
老人の大氾濫予防法についての、私と編集者の問答つづき。
「僕のアイデアでは、ボケ老人を一堂に集めて、集団でトワの眠りについてもらう。毎年八月十五日に戦没者追悼式を行う日本武道館か、いやこのセレモニーのために五階建てくらいの、森厳豪華きわまる神殿を造ってもいいかも知れない。そこに花をつめた柩をびっしりならべて、そのなかに横たわってもらう。そのうちガスがしずかに全館を満たす……」
国民の平均寿命が八十歳、国民の四分の一が六十五歳以上、なんて世の中がまちがいなく到来するんだから、そのときには老人の数を減らす方法を考えなければならない、というのが話の流れだ。
「それはともかく、そりゃ強制ですか」
「いや志願だ。六十五歳になったとき、将来ボケてクソジジイ、クソババアの徴候があらわれたら、この国家的葬送の儀に参加させてくれという登録をしておくんだ。自分の排泄物の始末もできない状態になってまだ生きていたいと思わないひとは、さぞ多いだろうからね。どうだい」
初読のときは、と書こうとして、初読、ということばが変換されないことに気がついた。
ネット辞書で調べても、初読、ということばは存在していないようだ。
へーえ。
この齢になるまで、初読ということばは、ごく一般的に使用されていると思い込んでいた。
初読と再読、とか、ふつうにつかわない?
あえて初読ということばを使用して話を進めると、この安楽死施設の話、初読のときにはおもしろがることができたのだが、二年前の再読では、多島さんのこともあって、すっかり身につまされてしまった、ということを、角川文庫で再々読して思い出し、多島さんのご家族のブログにアクセスして、なんか、つらくなってしまったぞ。
どうも、いかんなあ。
名張はきょうも、ひどく寒くってな。
はーるよこい、はーやくこい、っと。
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