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平成24・2012年1月10日 朝日新聞社
島時間 第7便/北木島 元球児の石職人
吉村治彦
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2012年01月10日
事務所に、甲子園で適時二塁打を打った米田雄樹さんの写真が飾ってある=笠岡市北木島町
機械を使って、石に穴を開ける米田雄樹さん=笠岡市北木島町
■北木島(きたぎしま)
周囲18・3キロ。笠岡諸島最大の島。人口も最多の1085人(県調べ、2011年3月現在)。港は四つ。笠岡港から高速船で36分、普通船で45~55分。30年前は100社ほど石材会社があったが、中国産に押されるなどして約20社に減った。レンタサイクルがある。
■削り 磨く あしたも
キィーン。
研磨機が石を削る音だけが、倉庫の高い天井に反響する。
ごつごつした原石から、墓石の滑らかな曲線を削り出す。研磨機を手に、米田雄樹さん(27)が目をギョロリと動かす。確かめては、また削る。少しずつ。
空気が張り詰めている。
■ ■
北木島は石の島だ。切り出される花崗岩(か・こう・がん)は「北木石」と呼ばれる。大阪城や日本銀行本店、東郷平八郎や江戸川乱歩の墓石にも使われた。
米田さんは、墓石をつくる「栄龍(えい・りゅう)石材」の3代目。1967年創業。父龍治さん(48)、母直美さん(46)と切り盛りする。
倉庫の隣にコンテナ事務所がある。壁に、パネルにした2枚の写真。同じ高校球児が、1枚ではバットを振り抜き、もう1枚では右手でガッツポーズ。
応接セットに座ると、真っ先に目に入るように飾られている。
■ ■
2001年、高校2年の夏。米田さんは佐野日大(栃木)の三塁手として甲子園の土を踏んだ。
2回戦。同点で迎えた8回表、2死三塁。直球を振り抜くと、打球はレフトの頭上を越え、勝ち越しの二塁打となった。
「ようやった! ゆうき君」
甲子園に出た北木島出身者は2人目。岡山の高校でもないのに、100人近い島の人がアルプス席を埋めた。
その割れるような声援に、ガッツポーズで応えた。離島のヒーローだった。
小1でソフトボールを始めた。小3からは毎週末、船で本土の少年野球チームに通った。平日も午前5時半に起床。3キロ走り、腕立て伏せや素振りを繰り返した。
「島出身だからと、なめられたくなかった」
中学時代も、広島県福山市の野球チームに通った。その縁で佐野日大へ進学。1年の秋からレギュラーを勝ち取った。
甲子園と、もう一つの夢がプロ野球だった。特待生として、横浜の大学に入った。
だが、1年生の初夏。守備練習の最中、腰に激痛が走った。動けない。医師に「激しい運動はもうできない」と宣告された。
頭が空っぽになった。大学を1年で中退した。
■ ■
島の期待に応えられなかった――。そんな自分が情けなくて、島に戻れなかった。
関東に残り、バイトで食いつないだ。四国の独立野球リーグの入団テストも受けた。最後の挑戦は、最終選考でついえた。
倉敷市まで戻り、自動車メーカーなどの期間工として働いた。知人の紹介で妻(28)と出会い、22歳で結婚した。
「半端なままではいられん」。父を継ぎ、石職人になろう。島へ戻ることを決めた。
島の人たちはあたたかかった。「残念やったな」「これから島を盛り上げてや」
父は何も言わなかった。本気なのか、試されている気がした。
最初の半年は、数百キロもの墓石にひもをかけ、トラックに積む作業をこなした。
父の技は目で覚えた。高価な石を削るのに、失敗は許されない。削り捨てられた石の塊(かたまり)を拾っては、研磨の練習を繰り返した。
■ ■
1球1球に魂を込めるように、目の前の石に向き合う。
「今は野球と同じくらい、石の仕事が好きになった」
墓石は、亡くなった人と、生きている人の心をつなぐ。硬い石から、やわらかく、あたたかいものを削り出したい。
そんな思いを込めて、黙々と削り、磨く。(吉村治彦)
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