おとといの講演会の件です。正史の令息でいらっしゃる横溝亮一さんのご臨席をたまわることになったと主催者側から伝えられたとき、あ、こりゃあまりうちつけなことは喋れないなと私は思いました。昨年の講演「横溝正史と江戸川乱歩」では正史と乱歩の確執を微細にわたって浮き彫りにし、どちらかといえば正史のほうが分が悪い感じの内容になったのですが、そのあたりの話柄は控えたほうがいいのではないかと判断して、正史と乱歩を日本探偵小説史に位置づけることに主眼を置いてみました。とくに軸となるのは海外探偵小説の受容史とでも呼ぶべき領域です。
ごく簡略な見取り図を記しておきますと、まず海外作品の翻案という形で探偵小説の輸入が始まり、つづいては翻訳の時代、それから乱歩が先陣を切った創作の時代がスタートします。乱歩のデビューは大正12年ですが、ブロ作家になって以降、乱歩は海外作品をあまり読まなくなったといいます。そのあたりの事情は当日の配布資料に〔*3〕として掲載した「探偵小説四十年」の引用でご確認ください。下の画像をクリックするとPDFファイルが開きますから、その二ページ下段をどうぞ。
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昭和7年、正史は前年創刊された「探偵小説」の編集を担当するようになりますが、廃刊が決まったため何を憚ることもなく自分の好きな海外長篇をたてつづけに掲載しました。それらの長篇を面白がったのが誰あろう乱歩でした。このあたりは配布資料〔*1〕の「私の推理小説雑感」でお読みください。
昭和10年、乱歩は『赤毛のレドメイン家』を原書で、正史は『英海峡の怪奇』を翻訳で読み、海外の本格長篇に対する認識を新たにします。とくに乱歩は本格探偵小説への情熱に突き動かされて『日本探偵小説傑作集』を編纂し、巻頭に「日本の探偵小説」を執筆しました。「ぷろふいる」に「鬼の言葉」の連載を始めたのもこの年のことです。このあたりの流れは配布資料の年表でご確認ください。
昭和10年の乱歩はどんな状態であったか。通俗長篇を量産することに倦み果てて休筆に入り、一年半ほど小説をお休みしたあとの復帰第一作「悪霊」を中絶してしまって正史に思いきり罵倒されたのが前年のこと。明けたこの年は5月に「人間豹」を完結させただけで実作のほうはとんと振るいませんでしたが、アンソロジーを編み、その解説を書くことで探偵小説の第一人者であることを江湖に、といってしまうと大仰かもしれませんが少なくとも探偵文壇にあらためて知らしめました。
「日本の探偵小説」で乱歩は、同時代の探偵小説を論理派と文学派に大別し、さらに細かい分類を与える作業を進めています。前者には理化学的探偵小説あり心理的探偵小説あり、後者には情操派あり怪奇派あり、といったぐあいです。比喩的にいえば、乱歩は探偵小説という王国の国土を分割し、家来たちに領土を与えていったように見えます。つまり、自分は探偵小説王国の王様であるということを、アンソロジーの編纂と解説によって宣言したことになります。
正史には文学派の怪奇派という領土が与えられました。同じ領土には渡辺啓助と妹尾アキ夫が配されました。怪奇派の特徴はエドガー・ポー、谷崎潤一郎、佐藤春夫の影響が感じられることであると乱歩は指摘していますが、乱歩もこの三人から強い影響を受けていますから、この領土には近しいものを感じていたはずです。もっとも、なにしろ王様ですから、自分自身に領土を分配することはしていません。王国全土が王様のものです。
王様は王国内にさまざまな領土があることを嘉していました。海外から輸入された探偵小説が日本という土壌で独自かつ多様な発達を遂げたことを肯定していました。海外作品を読んで本格長篇に開眼しながらも、探偵小説の第一人者としては眼の前にある探偵文壇の多様性を諒とすることが必要でした。本格こそが探偵小説の王者である、とうちつけに主張することはできませんでした。
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