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Nabari Ningaikyo Blog
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Posted by 中 相作 - 2011.10.11,Tue

 藤堂高次公の側室になったおこうちゃんの話がつづきます。

 

 東向寺の「冷川御前略歴」によれば、高次公がおこうちゃんを見初めたゆくたては、乱歩も引用しているとおり川で洗濯していたおこうちゃんを「如何ニモ奇様ノ姿ト思ヒシヤ手ヲ出シテ戯レケレバ」といったことでした。では「奇様ノ姿」とはどんな姿か。山田風太郎の「伊賀の散歩者」では「おそらく臀(しり)でも出して洗濯していたのではないかと思われる」とされていて、「どみね」パーソナリティの野上峰さんの頭にはおこうちゃんがお尻を丸出しにして洗濯しているイメージが強烈に焼きついてしまったらしく、去る8日の放送ではおこうちゃんがつきたての餅のようなまっしろなお尻を惜しげもなく全開にして洗濯していたということになってしまいました。なんですかもう、もしかしたら女ではなかったかもしれないのに女にされ、ほんとにそうだったかどうかわからないのにお尻全開ガールだったことにもされて、おこうちゃんにはとても失礼な放送になったかもしれません。

 

 さて、そのおこうちゃんが高次の側室となったことで平井家にはどんな変化がもたらされたのか。そのあたりのことは乱歩の随筆「彼」に記されているのですが、年代記的事象の列挙は放送では理解していただきにくかったかもしれませんので、『宗国史』に見える藤堂家の記録も参照しつつ、ここで年表にまとめておきたいと思います。

 

 寛永7年(1630) 藤堂高虎が死去、子の高次が二代目藩主となる。

 寛文7年(1667) 藤堂高次とおこうのあいだに高睦(たかちか)が誕生。

 寛文9年(1669) 藤堂高次が引退し、子の高久が三代目藩主となる。おこうの弟、平井友益(ともます)が藤堂家に召し抱えられる。友益は高次の針医として江戸屋敷に勤め、二十両六人扶持。

 延宝4年(1676) 藤堂高次、七十六歳で死去。

 天和2年(1682) 平井友益が死去し、子の陳救(のぶひら)が跡目を継ぐ。陳救は高睦の御小姓役として勤め、二十石五人扶持となる。

 貞享2年(1685) 藤堂高久に跡継ぎがなかったため、弟の高睦が養子となる。平井陳救、百石に加増される。

 元禄10年(1697) 平井陳救、百石加増され、二百石となる。

 元禄16年(1703) 藤堂高久が死去し、高睦が四代目藩主となる。

 宝永2年(1705) 藤堂高睦が久居藩主、藤堂高通の子、高敏を養子とする。

 宝永4年(1707) おこう、八十二歳で死去。平井陳救が八百石を加増され、千石となる。

 宝永5年(1708) 藤堂高睦、四十二歳で死去。高敏が五代目藩主となる。

 正徳4年(1714) 平井陳救、江戸から津へ移住。

 

 高次が引退した年におこうの弟、友益が藤堂家に召し抱えられました。この友益が平井家の初代とされています。高次とおこうの子、高睦が高久の養子となった年には平井家二代目の陳救が百石に加増され、十二年後には二百石となりました。そしておこうが死去した年、一気に千石まで加増されましたが、乱歩は「彼」に「太平の世にこの出世はただ事でないが、丁度この宝永四年には彼の伯母に当る前記高睦公の実母となった婦人が没しているから、当代の高睦公がその実母の喪を悲しんで、母の霊を慰める意味でこの破格の加増をしたのではないかと想像される」としています。

 

 さて、上の年表の最後の行にあるとおり、陳救は正徳4年に江戸から津へ移住しました。ところが「彼」では「正徳三年に正式に伊勢の津へ移住した」とされています。これは乱歩の誤りで、平井家の家系図には陳救が「正徳三癸巳年御國附奉願翌午年正月津引越」と記されています。そんなことがなぜわかるかというと、私の手元には乱歩のご遺族から頂戴した家系図のコピーがあるからです。家系図の表紙の画像はこんな感じ。

 

■20111011a.jpg

 

 こんな感じで家系図のすべてのページを撮影し、CDに焼いたものを少し以前、思いがけず頂戴してやはり望外の喜びをおぼえた次第です。観光案内の『伊豆の番頭』も東向寺の「冷川御前略歴」もこの「平井系譜」も、もう三年前のことになりますか、東京にある日本推理作家協会の事務局で開かれている土曜サロンという定例会で講師を務めたとき入手したもので、せっかく三重県の人間が講師を担当するのだから津藩藤堂家と平井家の関係をテーマにしようと考え、関係資料の調査収集に努めた結果、ありがたく手に入れることができた資料でした。

 

 それでこの「平井系譜」、乱歩が「彼」や「祖先発見記」に記していない事実もむろんたくさん記録されているのですが、必要とあらばそうした記録を公表してもよろしいでしょうかとご遺族にお訊きしましたところ、「平井系譜」はもう公共財産のようなものだからとOKをいただきましたので、さっそく地域研究の貴重な資料として役に立ってもらいましたというのがこの新聞記事。

 

 ▼2011年4月23日:ウェブニュース:上野城下町絵図を発見 伊賀文化産業協 修復、来春公開へ

 

 記事には「正徳5年に津から転入した藩士で、作家・江戸川乱歩(本名・平井太郎)の先祖にあたる平井隼人」とありますが、隼人というのは平井陳救の通称で、柳生十兵衛三厳みたいにフルネームで記せば平井隼人陳救ということになります。この隼人陳救、正徳4年正月に江戸から津に引っ越したあと、「同五乙未年正月伊賀附仰付」とのことで伊賀上野の城下町に移住し、城下町の地図にも平井隼人という名前が書き入れられました。その地図の製作年代を推定するうえで、「平井系譜」に記録されていた移住の年が手がかりになったという寸法です。

 

 みたいな感じで8日の「どみね」では平井家と伊賀上野の関係も軽くお話ししてきたのですが、リスナーのみなさんにこういった年代記的事象をうまくお伝えすることができたかどうか。ここでやはり年表にまとめておきたいと思います。いずれも乱歩は明らかにしておらず、「平井系譜」にもとづいて初めて公表する記録です。

 

 正徳5年(1715) 陳就(のぶひら)、伊賀附となる。

 享保9年(1724) 陳就の子、陳以(のぶゆき)が跡目を相続。

 享保18年(1733) 陳就が死去し、伊賀上野の広禅寺に葬られる。

 寛延元年(1748) 陳以が死去し、広禅寺に葬られる。子の陳為が跡目を相続。

 寛延2年(1749) 陳為、津附となる。

 

 二代目の陳就、三代目の陳以、四代目の陳為と平井家は三代にわたって伊賀上野の城下町に住みました。正徳5年から寛延2年まで三十四年ほど、平井家は伊賀に住まいしていたことになります。このあたりの歴史的事実も駆け足でお話ししたのですが、時間が不足気味でしたから説明不足になったかもしれません。29日の放送では乱歩の祖父と祖母の話からスタートし、なんとか乱歩の誕生までお話ししたいなと思っております。よろしくどうぞ。

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