Nabari Ningaikyo Blog
Posted by 中 相作 - 2018.05.27,Sun
いっこ前のエントリに無断転載した共同通信配信の「言論統制下も執筆続ける 乱歩ら、海軍関連の会報で」に、乱歩が「くろがね」に発表した「江田島記」が出てきます。
どんな訪問記か、とお思いのかたもおありでしょうから、江戸川乱歩推理文庫59『奇譚/獏の言葉』から全文を転載しておきましょう。ただし、ルビは省き、あまり詰まってるのもあれですから、段落間に一行空きを設けることにいたします。
江田島記
十一月十四日の海軍兵学校卒業式見学旅行に、くろがね会からは笹本寅、摂津茂和、秦賢助の三君と私とが参加した。ほかに同行者は海軍省詰記者倶楽部「黒潮会」の各社記者諸君、写真班員、婦人雑誌代表、日本映画社のニュース班など約三十名であった。
十一月十一日夜出発、十二日夕呉市着、同市古林旅館に合宿、翌十三日、一同江田島に渡り、着任間もなき兵学校校長井上成美中将に挨拶、副官室に於て先任副官前川中佐、監事近藤少佐から卒業式当日の次第を聞き、式場内整列の位置、御差遣高松宮殿下奉迎送の堵列順序などにつき打合せの後、近藤少佐の案内で校内見学、生徒自習室、洗面所、寝室などを見せて貰い、生徒の日常生活について説明を聞き、それから大講堂、八方園神社、教育参考館などを巡覧した。これら生徒の日常、校内の模様については、昨年くろがね会幹部諸君が見学、夫々発表された通りである。十三四日の両日にかけて我々の案内役を引受けて下さった近藤賢一少佐の懇切丁寧な誘導ぶりには一同大いに感謝した。印象的な八字髭、鄭重な言葉遣い、説明中口をついて出る諧謔、身振り手振り、チョコンとあみだに冠った軍帽、しかもこの飄逸の中に時々ピリッとした軍人魂が鋒鋩を現わす所など流石と肯かれ、作家一同甚だ好印象を受けたのである。
江田島は唯一の旅館も民家も、卒業式参列の為遥々全国から来島した卒業生の親御さん達で一杯なので、我々の宿泊する余地なく、その日は呉の旅館に引返し、翌十四日朝いよいよ卒業式に列するため、一同モーニング又は儀礼章をつけた国民服に着更えて、再び江田島に渡った。九時三十分、御差遣宮御召艦入港、十時御上陸、我々一同は、文武官、生徒、父兄などと共に、校内桟橋から大講堂御休憩所までの御道筋に堵列奉迎、十時三十分殿下には海岸砲台屋上より、校庭及海上に於ける卒業生の作業を台覧、我々見学の一行は桟橋附近に集合して之を拝観することを得た。台覧作業はカッター競漕、無線通信作業等であった。
十一時、大講堂に入り所定の位置につき、三十分に亘る荘厳なる卒業式典に列した。正面壇上に御直立の御差遣宮殿下の聖なる御姿の御前に、軍楽隊の奏する「誉の曲」の繰返し鳴り渡る中を、此度御卒業の久邇宮徳彦王殿下を御先頭に、卒業生総代、修業専修学生総代、十二名の優等生が次々と壇上に登り、証書、御下賜の短剣を拝受した。その間、奏楽と拝受者の名を呼び上げる声の外は場内寂として声なく、我々は直立不動の姿勢をつづけて、正面の聖なる御姿を拝し、その御前に次々に最敬礼して引下る卒業生のはれがましい動作を見守ったのである。今にして思えばこの日は遥か南方に於て第三次ソロモン海戦の戦われていた日である。十二日から十四日にかけて敵艦船二十数隻を屠ったが、我も亦戦艦一隻を失い、一隻大破され、大東亜戦史上最も銘記すべき日であった。将来の帝国海軍を背負って立つ若人の生涯の祝典と、この銘記すべき大海戦とが、日を同じゅうしていたことを思い合せ、感慨の更らに新なるものがある。
十二時十分、御差遣宮殿下奉送の後、十三時、第一生徒館大食堂に於て立食の宴。卒業生とその父母とが別れの盃を酌み交す場面である。卒業生達は今日は平時のように練習艦に乗るのではない。すぐ様軍艦に乗組み、所定の訓練期間を終れば前線の人となるのだ。卒業の祝宴は兼ねて征途への別宴である。正面にマイクロフォン備えつけの演壇、その前のメイン・テーブルには御卒業の久邇宮徳彦王殿下、及川古志郎大将、井上校長その他海軍高官、その両脇のテーブルには来賓の陸海軍武官、文官、食堂全体には生徒用の長い食卓が十数の縦列を作り、卒業生とその父母とがそれらの食卓に向い合って立ち、その間々に教官が混るという和やかな配置である。一同今日のよき日を乾盃、及川大将と井上校長は正面壇上に登って卒業生に慈父の言葉を与えられ、中庭を隔てた生徒館からの奏楽裡に立食の宴がはじまる。卒業生の大多数は生れて初めての酒盃に顔を真赤に染め、師弟父子互いに酌し合う美しい情景を眺めながら、くろがね会の四人も来賓席の一隅に立って、海軍武官の方々と共に祝酒の盃を挙げ、山と積まれた御馳走を十分に頂戴した。
宴の直後、私はこの日最も感銘の深い情景に接した。手洗所に行くため生徒館階下の廊下を通ろうとすると、そこが生徒服で充満しているのに一驚した。自習室前の廊下に、各学年の生徒が二列に向い合って事ありげに整列しているのである。私は会釈してその列の間をくぐりぬけ、中庭に降りて、何事かと眺めていると、やがて廊下の向うから夥しい靴音が轟き、二列に向き合っている生徒達の間を、祝酒に顔を赤くした卒業生達が、走るようにして通り過ぎて行くのである。在校中同じ分隊に属していた下級生の前にさしかかると「がんばるんだぞッ」「しっかりやれ」などと怒鳴りながら、ある者の手を握り、ある者の肩を抱きなどして訣別の意を表しつつ通り過ぎて行く。手を握られ、肩を抱かれた下級の少年達の紅顔は見る見る歪んで行く。忽ち彼等の目は涙にふくれ上り、之れをこぼすまいとして思わず両手がそこへ上がって行くのである。一人ではない。五人、七人、私は泣顔を隠そうとして困惑している可憐の少年達を見た。そして、中庭に佇立した私自身も、いつしか貰い泣きをしていたのである。
卒業生達は八方園神社に最後の参拝を為し将校集会所に赴いて諸恩師と懇ろの別れを告げ、いよいよ住みなれた校舎をあとにして、父母や下級生の堵列する道を桟橋に急ぎ、十数艘の艦載水雷艇又は内火艇に分乗、沖の軍艦へと出発する。父母達は岸辺のランチに、桟橋に、黒山となり、さいぜん廊下で涙を隠した下級生達は全員海岸に整列して之を見送る。やがて「蛍の光」の奏楽と共に、水雷艇、内火艇は一艘又一艘、桟橋を離れて行く。これぞ最後の訣別である。生きて再び相見ゆる日は無いかも知れぬ。艦上の卒業生も海岸の下級生も一斉に帽子を振り、母達はハンカチを振って、尽きぬ名残りを惜しむ。卒業生の小艇は列を為して沖に向う。奏楽の響、万歳の嵐、海原をどよもす壮観である。と見れば先頭の小艇が進路を変えた。その次も、又その次も、そして全艇再び海岸に戻って来るのだ。そこに堵列して、いつまでも帽子を振りつづける下級生達の顔が見分けられる近さまで。過ぎ去っては又立戻り、円を描いて去来する小艇の群、低徊去るに忍びざる風情、濃やかなる武人の情緒、宛として海上の一大演劇である。
卒業生の乗組んだ軍艦は、十五時解纜、いずこかに向って出発する。在校下級生達は更らにも尽きぬ別れを惜しんで、二十余艘のカッターに分乗して力漕、巨艦の舷に近づき、櫂を立ててその出港を見送るのであった。くろがね会の笹本君、摂津君私の三人は卒業生の親御さん達が、愛児の乗艦をしたいながら宮島に渡航する小汽艇に、便乗することを得た。動くとも見えぬ巨艦ながら、いつの間にか、全速力の小汽艇を遥かうしろに隔てて、くろがねの浮城は折からの夕靄の中に、とけこむように霞みつつ、瀬戸内の島の彼方に隠れ去った。私はその艦尾が全く見えなくなるまで、風寒き小艇の甲板に佇んで、目も離し得ず眺めていたが、眺めながら、同じ艇上のお母さん達の心を思わぬ訳には行かなかった。海原遠く霞み行く艨艟、いくら遠ざかっても小さくは見えぬ島の如きくろがねの団塊、その偉容と愛児の面影とが二重の幻となって生涯母達の瞼に残ることであろう。
その夕方、私達は厳島神社に参拝、同地の旅館で夕食を認め、夜更けて呉の旅宿に帰ったが、翌十五日午前、見学団一行は潜水学校を参観した。正門前の六号神社に参拝、そこの石垣の上に安置された旧六号艇の内部を感慨深く拝観、次に校内海上に繫留せられた大潜水艦の中を隈なく見せて貰い、更らに校内諸施設を一々参観することを得た。案内して下さったのは同校生徒の一人、まだ二十六七歳に見える非常に若い大尉の方であった。やがてこの学校を出れば何艦かの水雷長になるべき人。若したった今特殊潜航艇に乗り攻撃に向えと命ぜられたなら、我々海軍軍人は誰でも勇躍死に赴くのだと語った時、同大尉の眉宇に現われた一死報国の負けじ魂は、今猶脳裡に鮮かである。言語明晰、見るからに俊秀らしい、紅顔の美少年大尉であった。
見学を終って、我々くろがね会の四人は、引率者土田中尉、新聞記者諸君と別れを告げ呉を出発することになったが、笹本君は序でに九州の郷里を訪れるといい、秦君は広島からの乗車、摂津君と私だけが、十五日十三時二十何分呉発の急行列車に同乗した。車中計らずもくろがね会会長上田良武中将御夫妻に御会いし、同車することとなった。上田中将の御子息も今度の兵学校卒業生の一人でありその見送りの為に江田島に来られたのである。又後に「婦人倶楽部」を代表して一行に加わった清閑寺健氏も同車であることが分った。満員のため座席もない車中ながら、我々は江田島の感動を語り合って少しも退屈することがなかった。上田中将御夫妻と摂津君とは途中京都で下車、あとは清閑寺氏と私の二人、その頃やっと座席を見つけて、東京までを辛うじて眠ったのであった。
(昭一七・一一・二〇)
このテキストは、『奇譚/獏の言葉』を横に置いてキーボード入力したものではありません。
と書いて、『奇譚/獏の言葉』を横に置いて「奇譚」のテキストをキーボード入力していたころを懐かしく思い出しましたが、この「江田島記」はそんな面倒な作業は必要ありませんでした。
というのも、『奇譚/獏の言葉』から起こしたテキストをワードファイルで保存したコンパクトディスク、なんてものをさる筋から頂戴してあるものですから、そこから拾うだけでOKでした。
名張市立図書館の嘱託を拝命したときから数えればもう二十年以上、こんな稼業をつづけておりますから、いやいや、とても稼業と呼べるようなものではないのですが、それなりに乱歩関連のあれこれをいただくことがないこともなくて、このコンパクトディスクもそのひとつでした。
『奇譚/獏の言葉』なんてごくわずかな数が世に送られただけでしょうから、名張市立図書館の公式サイトで「江田島記」のテキストを公開する、みたいなことがあってもいいとは思います。
いいとは思いますけど、とても無理だとも思います。
しかし、無理は無理だとしても、いったいどんな理由をつけてそんなことは無理でございますと答えてくれるのか、ちょっと興味が出てきたぞ。
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