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大阪日日新聞
平成23・2011年7月30日 新日本海新聞社大阪本社
江戸川乱歩(下)
三善貞司
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なにわ人物伝 -光彩を放つ-
2011年7月30日
全集災い、検閲で発禁同然に 戦後推理小説界発展に尽力
三善 貞司
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江戸川乱歩=『日本近代文学大事典』
推理小説のパイオニア江戸川乱歩は、大正15(1926)年大阪から東京に移り、『闇に蠢(うごめ)く』『湖畔亭事件』『パノラマ島奇談』『お勢登場』『鏡地獄』などの、かつて日本にはなかった神秘・怪奇小説を次々に発表する。大衆的人気を集めただけではない。詩人萩原朔太郎でさえ、「ファンタジックな残酷美がある」と激賞したぐらいだ。
しかしこれらの作品は、人肉嗜好(しこう)やレンズによる浴室のぞき、球体鏡の内面恐怖といった異常心理を下敷きにしており、エスカレートするに従って作者の神経を痛め続けた。翌昭和2(27)年『一寸法師』を最後に絶筆宣言をして旅に出るが、ひどい躁鬱(そううつ)病に悩み、医師も腕を拱(こまぬ)くありさまとなる。
同4年ふたたび筆を執るが、『陰獣』『蜘蛛(くも)男』『黒蜥蜴(とかげ)』などのゲテモノ化した通俗小説に走り、文壇は顔をしかめた。自分でも自分に絶望した乱歩が、無邪気な子どもに立ち返るつもりで書き始めたのが、同11年から「少年倶楽部」に連載する『怪人二十面相』である。変幻自在に出没する変装の名人二十面相と、聡明(そうめい)で正義を愛する名探偵明智小五郎、小五郎の助手で利発な小林少年の三者が織り成すトリックや人間模様は、少年少女たちに爆発的人気をもたらした。ブームに目を付けた平凡社が、『江戸川乱歩全集』を出版したほど人気を集める。
だがこの全集が災いとなる。同16年12月、日本は無謀な太平洋戦争に突入。言論は統制され厳しい検閲を受けるが、全集に収録された乱歩の旧作『芋虫』が反戦文学だと削除を命じられ、以後彼の作品は発禁同然となった。この事件は生活態度まで一変させる。人間嫌いでつきあい下手だった乱歩は、突然隣組防空班長になり、戦闘帽にゲートル姿で防空演習の指揮をとる。物資配給の世話をして地域の人々のために献身的に働く。かと思えば不眠症に悩み、徹夜してポーやトレントら外国作家のトリックを研究翻案し、発表のあてのない原稿を書き続ける。「乱歩先生はきさくで社交的だ」「とんでもない。自分の穴に閉じこもる孤高の人だ」と、知人たちの評価が正反対に分かれるのは、このせいである。
終戦後の乱歩は、ひたすら海外の推理小説の紹介や評論活動、あるいは昭和22年には「探偵作家クラブ」を結成して会長になり、また雑誌「宝石」の刊行に協力して若手作家たちの育成に努め、推理小説界の発展に尽力した。「乱歩の才能は枯れた」「トリックのネタが尽きたのであろう」などの悪口も聞こえるが、同26年刊の評論集『幻影城』を読めば、学問的な立場で推理小説の文芸的地位の向上を目指したことが、はっきりと分かる。その3年後刊の類別トリック集成ともいえる『続・幻影城』と合わせて、推理小説を志す者のバイブルであろう。
乱歩の作品は、異常な怪奇心理と妖美性にあふれているため、その人物像も誤解された部分が多い。前記のように相反する知人たちの言葉から、二重人格だとか、同性愛好者だとか、サドとマゾの両面をもつ不気味な密室型作家だなどと言う人もいるが、いずれも作品内容と作者の人格を混同するからである。また酒席は好んだが元来酒には弱く、無理に忘我の境地を体験したくての飲酒だったと思われる。学生時代に陶酔した数奇な人生をたどるポーへの憧れも、人に倍して強かった。
同38年「推理作家協会」初代理事長に就任するが、難病パーキンソン氏病に苦しみ、同40年7月、71歳で死亡した。
「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」、まるで中国の哲学者荘子のような言葉を、よく色紙に書いている。同36年刊『探偵小説四十年』は自伝的推理小説史で、彼を知る最高の手掛かりになる。異能の植物学者岩田準一から得た知識も、彼の独自の世界を補強する。
(地域史研究者)
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