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Nabari Ningaikyo Blog
Posted by - 2024.11.22,Fri
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Posted by 中 相作 - 2017.04.16,Sun

 身辺整理がまだ終わりません。

 とにかくもういろんなものを処分していて、何年か前に話題になった断捨離とはこのことかと得心している次第です。

 身辺整理は終わらなくても、こっちのほうは終わらせておきたいと思います。

 2017年3月28日:検閲と名張 前篇
 2017年4月09日:検閲と名張 中篇

 水沢不二夫さんの「検閲官生悦住求馬小伝」から、「一 生悦住の出自」のつづきを最後まで引用。

 父親は桑名警察署(内勤)や久居市の農林学校、鈴鹿市の神戸中学(現、高等学校)の事務長などを務めており、その関係からか生悦住の出生は久居市であったらしい。生悦住と夏見の生悦住本家との関係の詳細は不明だが、父親は伊賀に葬られている。母方の祖父は桑名市新地に住み、多度神社の神職であった。
 生悦住は三重県第一中学校(現、津高等学校)を月謝免除の特待生で卒業し、校長推薦で第八高等学校文科甲類に進み、二年時から特待生となった。同級には穂積秀次郎がいた。
 一九二一年(大正一〇)、東京帝国大学法学部英法科に入学し、穗積秀次郎と再会する。秀次郎は憲法学者穂積八束やつかの次男で、八束は兄の民法学者陳重のぶしげとともに法曹界の重鎮である。両者ともに東京帝国大学法科大学長を務め、司法試験や高等文官試験も采配し、内務省の人事も蔭で掌握していた。生悦住はその八束の家に下宿人として転がり込む。この瞬間に生脱住の官僚としての将来が約束されたと言ってもよいだろう。
 もちろん生悦住は私的コネクションだけで官僚になっていくのではない。三年時在学中に高等文官試験に合格するという快挙もなしている。入省後に受ける者も珍しくなかったから、官僚のなかでもまさにエリートである。やがて生悦住は三重県内務部長岸本康通のツテを辿り、内務省人事課長佐上信一に幾度も面会し、採用試験に至る。佐上は岡山、長崎県知事を経て地方局長となり、そのあいだ生悦住の人事ばかりか結婚まで面倒を見ることになる。
 生悦住の学業は一九二三年(大正一二)の関東大震災後の混乱で卒業式もなく終わった。政府は一一月には「国民精神作興に関する詔書」を発し、時代は大正デモクラシーから政府主導の〈思想善導〉に移行していく。「教育勅語」や「戊申詔書」に続き、詔勅という憲法、法律を超越した審級による国民国家の道徳、精神、教養の質の枠組みが補強、新造されたのである。この証書は第一次大戦後の風俗の弛緩、動揺の矯正を目的とするものであった。生悦住はこうした政府による言論統制、思想統制、そして思想誘導の流れに身を投じていく。
 生悦住の警保局図書課での仕事は四期に分けられる。①初任時の見習いの「ぞく」、②調査担当事務官、③検閲・企画担当事務官、そして④課長の時期である。

 たしかに名張市夏見は生悦住一族の本貫で、住所でポン! してみたら生悦住さんは五軒ありました。

 ただしこの生悦住求馬、水沢さんが「出生は久居市であったらしい」とお書きのとおり、名張生まれではありません。

 ウィキペディアは「久居市に生まれる」と断定しています。

 ウィキペディア:生悦住求馬

 ちなみに久居市は平成18・2006年、市町村合併で姿を消し、現在は津市になっております。

 どうもこの生悦住求馬みたいなエリート、名張なんてとこには生まれそうもありませんが、とにかく現在の名張市に生まれた探偵作家の作品を、現在の名張市に本家があった内務官僚が取り締まり、文庫本一冊を発禁処分に追い込んだのですから、なんとも奇しき因縁だという気がいたします。

 もっとも、生悦住はたぶん乱歩が名張生まれだということは露ほども知らず、そもそも探偵小説なんて低俗なものだと頭から軽蔑していたのではないかと想像されます。

 全篇はこちらでどうぞ。

 森話社:日本文学[近代]|検閲と発禁 近代日本の言論統制

 かなりお高い本ですから、図書館をご利用いただくという手もあります。
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