Nabari Ningaikyo Blog
Posted by 中 相作 - 2016.12.09,Fri
きょう12月9日は平井隆太郎先生のご命日です。
平井先生を偲んで、先生が豊島区の「広報としま」に六回にわたって連載された「わたしの豊島紀行」から、第一回の一節をご紹介申しあげます。掲載は第九百四十六号、発行は平成7・1995年1月15日。
私共一家が現在の立教大学前に転居して来たのは昭和九年七月のことである。閑静で空気がきれいというのを父が気に入ったのであった。東京で一番空気の澄んだ土地という当時の新聞の調査結果の切り抜きが書斎に置いてあったのを覚えている。
その前は泉岳寺近くの芝区車町八番地に一年ほど住んでいた。現在も史跡が残っている大木戸に面した横町の家であった。しかし第一京浜国道が目と鼻の場所だったので父は騒音を嫌って僅か一年足らずで引き払った。新青年に掲載予定の【悪霊】の筆が進まず父は苦吟の最中だったから一層不快だったのであろう。当時の父は国道に面した二階を寝室にしていたので騒音が直撃したのである。府立五中(今の小石川高校)の二年生になったばかりの私は家のすぐ前の田町九丁目の市電停留所から駕籠町の学校まで約五十分の電車通学であった。朝すこし早目に出ると三十分で学校に着くこともあった。その頃の市電は邪魔な自動車など数えるほどしか走っていなかったし、また停留所に客がいなければフルスピードで飛ばしてしまうので現在からは想像外の短時間で駕籠町まで行けたのである。
車町の横町路地の突き当たりには囲碁の木谷実さんが住んでいたのでこの路地には名人横町の別名があったそうである。我が家の前住者は当時有名だった谷孫六さんだった。谷さんも今風に云えば財テク指南で名をなした人である。家の直ぐ向かいには浜口熊岳という気合い術の先生がいて朝からエイヤアと凄まじい掛け声が聞こえていた。年中はだか一貫で近所のおかみさん連中を追いかけまわす悪癖の持ち主でもあったが、気合いで病気を直すという触れこみで新聞にも紹介され結構有名人であった。もっとも父は明るい中は寝ていたから池袋転居は熊岳道場の騒音を気にしたわけではなかった。
東京で一番空気が澄んでいた池袋、フルスピードで突っ走る市電、裸で主婦を追い回す気合術の先生。
まさに「現代からは想像外」のディテールがとても興味深く思われます。
それでは、あらためて平井隆太郎先生のご冥福をお祈り申しあげつつ。
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