きょうも行ってみよう。
ひとつひとつ、しっかりした考えを、着実に、くどくどくどくど、積み重ねてみよう。
乱歩関連資料をいかに活用するか、というのは、名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託を拝命した不肖サンデーにとって、当面の最重要課題であった。
それはそうじゃろう。
なにしろ、乱歩にかんしてなにしたらいいかわかりません、と泣きつかれ、そんなもん収集資料を活用すればいいだけの話じゃけえ、とうそぶいて嘱託になったんだから、活用のことを重点的に考えたのは無理からぬ話であった。
しかし、こうして考えてみると、ほんと、名張市立図書館はいったいなにをしておったのだろうな。
ちゃんと考えて、ちゃんと決める、ということを、どうしてかたくなに拒んでおったのであろうな。
いったいどうしたら、ここまでみごとに、最初っからなーんにも考えない、みたいなあほな真似ができるのであろうな。
ふつうなら、なにも考えないつもりでいても、ついつい考えてしまうものなんだけど、きれいになんにも考えない、ってのは、ある意味すごいよね。
名張市役所のみなさんは、どうお思いであろうか。
みなさんのために、いろはのいから、筋道を立てて説明してみよう。
これは、名張市に市立図書館がなかった時代の話じゃ。
名張市に市立図書館をつくろう、という話が出てきた。
結構なことである。
ぜひともつくるべきである。
公共図書館は、地域社会になくてはならぬ施設のひとつじゃ。
さて、どんな図書館にしようか、という話し合いが進められて、名張生まれの乱歩に力を入れてみようか、という話になった。
むろん不肖サンデー、実際にそういった話し合いが進められたのかどうか、そんなことは知る由もないのじゃが、名張市立図書館は開館準備の段階から乱歩関連資料を収集しておったのだし、移転新築に際しては館内に乱歩コーナーまで開設しておるのじゃから、乱歩は当初から図書館運営の重要なコンテンツのひとつに位置づけられていた、と考えるのが自然じゃろう。
もちろん、乱歩に力を入れようが入れまいが、そんなことはどうだっていい。
どうしても力を入れなければならない、ということは、まったくない。
しかしまあ、話し合いがどう進んだのかはわからんが、力を入れよう、という結論にいたったわけである。
それならそれで、むろん結構である。
乱歩に力を入れる、という結論にいたったのであれば、しっかり力を入れりゃいいのよ。
ならば、力を入れるために、いったいなにをすればいいのか。
このあたりのことになると、名張市役所のみなさんはもう、なにがなにやらわかんなくなってくるのかもしれんな。
少なくとも、名張市立図書館をつくりましょう、と関係者が話し合っていた段階では、まちがいなくそうであった。
乱歩に力を入れることにして、そのあと、ふつうなら、どうするだろう。
乱歩というのは作家なんだから、まず作品に接してみる。
そうなるはずだ。
まずは手近なところで、先日も記したけど、新刊で入手可能だった新潮文庫を手に取ってみる。
あるいは、教養文庫を手に取ってみる。
そのあたりからスタートする。
乱歩作品を読もうとする。
乱歩について知ろうとする。
乱歩のことを調べようとする。
そういう方向に進路を取るのがふつうだ。
だから、新潮文庫や教養文庫を読んだあとは、春陽文庫は名張市内の書店には並んでなかったと思うんだけど、本屋さんに取り寄せてもらうことはいくらでもできたから、いわゆる通俗長篇の世界を堪能する、みたいなことになってもよかったわけだし、でなければ、名張市立図書館が開館する三か月ほど前には講談社版歿後第一次乱歩全集の配本がはじまっていて、第十三巻と第十四巻は自伝にあてられていたんだから、それを読んで、これもまた先日記したことだけど、乱歩がいつどんな作品を書き、どんな本を出したのか、そのあたりのリストを自伝にもとづいてつくってみる、みたいな感じで書誌的な方面に眼を向けてもよかったんだけれど、とにかくそういった方向に進んでゆくのがごく順当なところだっただろう。
名張市役所のみなさん、よろしいか。
要は、図書館をつくろう、という話だ。
図書館として乱歩に力を入れる、ということになったら、まずいちばんに考えるのは、乱歩の本を集めよう、ということだ。
だったら、乱歩がどんな本を出したのか、それを知ること、調べることが、どうしても必要になる。
ところが、名張市立図書館は、それをしなかったらしいのよね。
では、なにをしたのか。
本屋さんとか古本屋さんとかに行って、乱歩の本、くださいな、と市民の税金で大人買いをした。
もちろん、それは必要なことである。
不可欠のことである。
しかし、なにも考えずに、ただ買っただけなのである。
そのあと、どうしたか。
買った本を、本棚に飾った。
むろん、その本を読もうとはしなかった。
買った本のリストをつくろうともしなかった。
もとより、目録をつくろることなんかさらさら考えなかった。
なにも考えずに、ただ買って、なにも考えずに、ただ飾っておった。
それだけである。
ただまあ、それでも活用だ、といえばいえるのかもしれない。
乱歩の本を購入して展示することも、収集資料の活用にほかならない、といえるかもしれない。
それでじゅうぶんではないか、とお思いのかたも、とくに名張市役所のみなさんのなかには、おいでかもしれない。
それはまあ、そういう考えかたも、ありといえばありであろう。
頭から否定するつもりはない。
しかし、それは、あほな話だといえばあほな話だし、もったいないっちゃいかにももったいない話なのよね。
たとえていえば、大枚はたいて買ってきた真新しい自動車を、ただガレージに置いとくだけで、いちども乗ろうとしないようなものだ。
自動車というのは、乗るためのものである。
乗らずに飾って、ただながめてるだけ、というのでは、なんだかあほみたいだし、もったいなくもある。
名張市役所のみなさんにも、それはおわかりいただけるであろう。
本も似たようなものである。
自動車が乗るためのものであるとしたら、本ってのは読むためのものなのね。
読もうとしないのは、あほみたいだし、もったいなくもある。
しかし、不肖サンデーが嘱託を拝命した当時、名張市立図書館はまさにそういう状態にあったのである。
なんかもう、ひどい話でさ。
図書館だよ図書館。
本を読んだり、ものを知ったり調べたりする場であるはずの図書館が、乱歩作品を読もうとも、乱歩について知ろうとも、乱歩のことを調べようともせず、ただ乱歩コーナーに買った本を並べてこと足れりとしておったのじゃ。
しかもあれだぞ。
乱歩コーナーに設置された特別あつらえの展示ケースのひとつには、乱歩賞受賞作品の単行本が麗々しく陳列されておるんだぞ。
まったく、なーに考えてんだよ。
つか、たまにゃ考えるっつーこともやってみろよ。
脊髄反射みたいな思いつきだけでものごと進めてんじゃねーよ。
ほんと、ひどい話なのである。
名張市役所のみなさんにおわかりいただけるかどうか、それはわからんけど、指摘すべきことを指摘しておくと、名張市立図書館は図書館を否定していた、ということになるわけな。
おわかりであろうか。
本を読んだり、ものを知ったり調べたりする場であるというのに、乱歩作品を読もうとも、乱歩について知ろうとも、乱歩のことを調べようともせんかったのだから、手前どもは図書館ではございません、とゆうとるようなものなのである。
図書館が図書館を否定してどうするよ。
えーっと、サンデー先生のいってること、ちょっとわかりにくいかしら?
いったん休憩。
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