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Nabari Ningaikyo Blog
Posted by - 2024.11.24,Sun
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Posted by 中 相作 - 2016.05.21,Sat

 まず、この件です。


 ここにいうコンビニとは、セブンイレブンのことでございました。



 自慢ではありませんが、名張市内にはセブンイレブンが一店もありません。

 まいったな、と思い、結局、地元資本の本屋さんに取り寄せてもらうことにいたしました。

 つづきまして、この件。

 2016年5月11日:幻視者の死
 2016年5月12日:チャチャヤング・ショートショート・マガジン 第3号

 この「チャチャヤング・ショートショート・マガジン」、バックナンバーも含めて全部入手したいのだが、とのお問い合わせをいただきましたが、最新号も含めて残部ゼロだそうです。

 ですから、上のエントリにあるリンクをたどって、Adobe Document Cloudで公開されているものをお読みいただくしかありません。

 2012年発行の創刊準備号はこちらです。

 Adobe Document Cloud:チャチャヤング・ショートショート・マガジン創刊準備号.pdf

 ほかのバックナンバーも順次、アップロードされるとのことでございます。

 さて、このところいいお天気がつづいて、さすが新緑の候、思わず、僕は5月に生まれた、とか大うそをつきたくなってしまうきのうきょうですが、青葉して細うなられし若衆かな、とか意味不明のことをつぶやきつつ、東海地方にゆかりある記述を求めて乱歩の随筆を読み進めてゆくと、思いがけないところで少年期の回想にぶつかることがあります。

 たとえば昭和25年、五十六歳の乱歩が「中央公論」に発表した「日本探偵小説の系譜」。

 冒頭にお芝居の話が出てきて、「演劇の方では、主として川上音二郎、高田実などの新派劇によって、探偵物、犯罪ものが実に頻繁に演じられ、涙香の作品も無論しばしば上演された」などとあったあと、子供時代の思い出が語られます。

 新派劇が演じたこの種の探偵ものの内、最も世評の高かったのは、相馬事件に取材して岩崎蕣花しゆんかが書いた「意外」「又意外」「又々意外」であった。中にも「又意外」が好評で、繰返し上演された。私は小学校にも行かぬ幼い時、名古屋で高田実の「又意外」(明治三十三、四年頃)を見たが、舞台前一杯にしやを張った、雪中の捕物の「夢」の場面が非常に印象的で、今でも目に浮かぶようである。
 私は明治二十七年に生れたのだが、芝居の方の探偵物全盛期はちょうど私の生れる前後から三十年代の前半までで、私が物心ついた頃には、やや下火になっていた。しかし、余勢はまだ充分残っていたので、上記の「又意外」のほかにも、新派劇では犯罪ものをたびたび見ている。当時の新派劇はきまったように、終りに法廷の場面があり、全体に秘密性と犯罪味が濃厚で、新派劇は怖いものだという印象を強く受けていた。
 私の探偵小説乃至犯罪小説への興味は、当時さかんであった貸本屋と新派劇によって養われたといっていい。それは何か我々の日常とは違った、秘密に満ちた薄気味の悪い世界で、しかし人間というものは、心の底にそういう薄気味の悪いものを持っているのだ、そこにうわべの生活とは違った真実があるのだ、というような興味であった。この興味は結局ギリシア悲劇やシェークスピアの犯罪劇に当時の観衆が抱いた興味と、根本的に違ったものではないようである。

 こうした回想に接すると、秘密は乱歩にとってオブセッションみたいなものだったらしいな、ということにあらためて気づかされます。

 ほんの子供のころから乱歩は、日常とは異なる「秘密に満ちた薄気味の悪い世界」の存在を信じていて、というより、信じようとしていて、「人間というものは、心の底にそういう薄気味の悪いものを持っているのだ」と確信していた。

 だから後年、探偵小説を定義するにあたっても、謎ではなく秘密という言葉をつかってしまって、なんか変てこな定義だな、と思われてしまう。

 もっとも、変てこだな、と思ってるのはどうやら私ひとりだけらしくって、私以外の人はみな謎でも秘密でもどっちだっていいじゃん、とお考えのようなんですけど、そんなことはないのではないか。

 とかいいだすといわゆる水かけ論になってしまいますので、まあほかの人のことはほっときますけど、この新派劇について記されたところなど、じつはそのまま「二銭銅貨」につながるように思われます。

 すなわち、「二銭銅貨」で最後に明らかにされるのは、人間が心の底に秘めている「薄気味の悪いもの」にほかなりません。

 私という一人称の語り手は、共同生活を送る友人の松村を騙している、という事実を秘密にしていましたし、友人を欺くことでみずからの優越を示したいという欲望もまた、語り手によって最後まで隠されていました。

 親しいはずの友人に平気で「やり過ぎたいたずら」を仕掛け、友人をこっそり観察し最後に真実を暴露することで自身の欲望を満足させるような「薄気味の悪い」内面とか心理とか呼ばれるものを、語り手はたしかに秘め持っていました。

 「二銭銅貨」の終幕で明かされたのは、日常という不透明な膜に覆われていた「秘密に満ちた薄気味の悪い世界」であったといっていいでしょう。

 そうした秘密への好奇は早くも少年期から、乱歩の心に若葉のように濃い影を落としていました。

 秘密というものがたしかにが存在していることや、秘密を発見することが異様なほどの驚きと喜びをもたらしてくれるということを乱歩に教えたのは、まず幼年期の絵探しであり、読み書きをおぼえたあとは暗号であり、さらには谷崎潤一郎が大正10年、「二銭銅貨」より二年ほど早く発表した短篇「私」だったのではないかと思われます。

 要するに乱歩にとって、謎や論理なんてのはじつはほんとはどうでもいいようなことであって、何よりも大事でかけがえがなかったのは秘密と官能なのであった、みたいなことだったと思うんですけど、私以外の人はどうなんでしょうか。
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