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Nabari Ningaikyo Blog
Posted by - 2024.11.24,Sun
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Posted by 中 相作 - 2016.02.09,Tue

 青空文庫に「人間椅子」が加わりました。


 底本は光文社文庫の乱歩全集第一巻。

 冒頭の段落を引いてみます。

 佳子よしこは、毎朝、夫の登庁とうちょうを見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館の方の、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせる為の、長い創作にとりかかっているのだった。

 光文社文庫版全集の「人間椅子」は、平凡社版乱歩全集第一巻を底本として、新字新かなに改めたものです。

 いっぽう、乱歩みずから校訂した桃源社版全集では、「人間椅子」は第一巻に収録されていて、冒頭の段落はこうなっています。

 佳子よしこは、毎朝、夫の登庁とうちょうを見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。

 乱歩による校訂の要諦は、まずなによりも読みやすさに配慮して、そのさまたげとなりそうな漢字をかなに開くことであったようです。

 ちなみに、光文社文庫版全集第一巻の「解題」によれば、「人間椅子」は「初出、初刊本、平凡社版全集に大きな異同はない。春陽堂版全集は新字新仮名遣い(ただし、平仮名の拗音や促音の区別はない)、新送り仮名とし、漢字をひらいた。桃源社版はさらに漢字をひらき、平易なものとし、送り仮名をさらに送っている。また、読点を減らしているが、内容的に大きな加筆・訂正はない」とのことです。

 乱歩没後には、乱歩以外の人間の手で、つまり編集者の手で、同様の作業が進められることになりました。

 講談社からは没後三次にわたって乱歩全集が出版されましたが、テキストはそのまま踏襲されたわけではないようで、一次の「謂わば」が二次と三次では「いわば」になってる、みたいな例が散見されます。

 ではここで、昭和10年から11年にかけて発表された「彼」の表記の変遷を、ごく簡単に確認してみたいと思います。

 とはいえ、初出も初刊も手もとでは確認できませんので、初刊を底本とした光文社文庫版全集と没後第三次全集に相当する講談社乱歩推理文庫を並べて、「彼」の第一章、すなわち文庫本でわずか五、六ページのくだりを比較するだけの話です。

 ちなみに「彼」は、前者では第二十四巻『悪人志願』、後者では第四十九巻『鬼の言葉』に収められています。

 では以下、「光文社の表記 → 講談社の表記」。

分っている → わかっている
御国附 → 御国付
僅か → わずか
謂わば → いわば
出来なかった → できなかった
勤めたり → 務めたり
或は → あるいは
已に → すでに
殆んど → ほとんど
度々 → たびたび
色々 → いろいろ
絶間 → 絶え間
召使 → 召使い
出入 → 出入り
慣らい → 慣い
起って → 起こって
来る。(無論……出せない)すると → 来る(むろん……出せない)、すると
大盤振舞 → 大盤振舞い
思出話 → 思い出話
在る → ある
遂に → ついに
其後 → その後
屢々 → しばしば
為 → ため
持物 → 持ち物
又 → また
程 → ほど

 表記変更の要点は、漢字をかなに開く、送り仮名を増やす、漢字を別の漢字に置き換える、といったところだと判断されますが、とくに厳密なルールが設けられていたわけではなく、編集者が独断で適当に判断して表記に手を加えていたものと思われます。

 そういった恣意的な改変に批判の眼を向けるひとも当然あるはずですけど、私の場合、編集者としての立場から考えますと、この手のフォローは必要不可欠だということになります。

 漢字が多くて読みにくそうだ、なんていう理由で読者に敬遠されてしまうのは願い下げですし、そもそも乱歩自身、自作が商品として同時代に流通していることを念願しつづけていた作家ですから、現代の読者に違和感や抵抗感なしに受け容れられる表記にして提出するのは、編集者として当然の責務であろうと考えます。

 ところで、去年の秋、さる乱歩ファンのかたとお酒を飲んだときのことですけど、

 「知り合いの若いのに乱歩を読むように薦めたんですけど、しばらくして、乱歩の小説は改行が少ないから読みにくいという返事が返ってきました。意外な反応でした」

 とのことで、たしかに当節のエンタメだのラノベだのを読み慣れた眼から見れば、乱歩作品は改行が少なくて読みづらい、ということになるのかもしれません。

 だからといって、編集者が勝手に改行を増やすのはいうまでもなくNGです。

 もっとも、著作権が消滅してパブリックドメインになった乱歩作品を素材に、句点で自動的に改行してしまう「人間椅子」なんてのが世に問われる時代が到来するのかもしれません。

 青空文庫を素材にして、ちょっとやってみましょう。

 ルビは省略しますね。

 佳子は、毎朝、夫の登庁を見送って了うと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館の方の、夫と共用の書斎へ、とじ籠るのが例になっていた。
 そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせる為の、長い創作にとりかかっているのだった。
 美しい閨秀作家としての彼女は、此の頃では、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせる程も、有名になっていた。
 彼女の所へは、毎日の様に未知の崇拝者達からの手紙が、幾通となくやって来た。
 今朝とても、彼女は、書斎の机の前に坐ると、仕事にとりかかる前に、先ず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。
 それは何れも、極り切った様に、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女の優しい心遣いから、どの様な手紙であろうとも、自分に宛られたものは、兎も角も、一通りは読んで見ることにしていた。
 簡単なものから先にして、二通の封書と、一葉のはがきとを見て了うと、あとにはかさ高い原稿らしい一通が残った。
 別段通知の手紙は貰っていないけれど、そうして、突然原稿を送って来る例は、これまでにしても、よくあることだった。
 それは、多くの場合、長々しく退屈極る代物であったけれど、彼女は兎も角も、表題丈でも見て置こうと、封を切って、中の紙束を取出して見た。
 それは、思った通り、原稿用紙を綴じたものであった。
 が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「奥様」という、呼びかけの言葉で始まっているのだった。
 ハテナ、では、やっぱり手紙なのかしら、そう思って、何気なく二行三行と目を走らせて行く内に、彼女は、そこから、何となく異常な、妙に気味悪いものを予感した。
 そして、持前の好奇心が、彼女をして、ぐんぐん、先を読ませて行くのであった。

 奥様、

 改行が増えて読みやすくなった、という印象を受けないでもありませんが、読みやすさというのはやはり、改行よりは表記に左右されるものであると思われます。

 つづく。
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