Nabari Ningaikyo Blog
Posted by 中 相作 - 2015.07.29,Wed
7月29日を迎えました。
どんな乱歩忌をお過ごしだったでしょう。乱歩忌の前日、ラジオではこんなおはなしが。
▼NHK Online:先読み!夕方ニュース:「没後50年 いまも人々を魅了する江戸川乱歩」
しかし、さすがに、お子供衆に「孤島の鬼」をお薦めするのはいかがなものか、とも思われますけど、没後五十年を迎えて乱歩人気いよいよ高し、ということを雄弁に物語る放送であるといえます。
さて、五十年前、1965年の7月29日、中井英夫は日記にこう記しました。
七月二十九日
乱歩が死んだ。
人間の中に稀れに生じた──それも日本人の中に──悪の美しさを見る眼の持主。その人は日本人のおそらくは九〇パーセントにその妖しい戦慄を教え、そしてせいぜい紫綬ホーショーなんぞというささやかな報いを得たのみで死んでしまった。
生前、二度だけ会い、その印象は苦いものだったが、ともかくも元気なうちに『虚無』の前半だけ読んでもらえたこと、一応ホメてもらえたことが、侘しい微笑を誘う。そして当然の約束のように、後半は読んでもらえず、それが推理小説なるものの墓標である意義をまた加えた。あの小説が出て、たちまち推理小説そのものが凋落し、そして乱歩さえ死んだことを、そのうち気づくひとがいるだろうか。
『虚無への供物』の出版は乱歩が死去する前年のことでしたが、そのあとたちまち推理小説が凋落したのかどうかは別として、1966年刊行の『一九六六年版推理小説ベスト24 1』に収録された中島河太郎先生の「推理小説界展望」は、こんな文章で始められていました。
戦後二十年が終ろうとするときに、わが国の推理小説を育成した功労者が、三人も続けざまに亡くなられた。
五月十六日に森下雨村氏を失い、七月二十八日に江戸川乱歩氏を、続いて三十日には谷崎潤一郎氏の訃報をきいた。相次ぐ悲報に一時は茫然となったが、この三元老の逝去をもって、旧探偵小説時代は名実ともに、終焉を迎えたという感慨は蔽えない。
で、推理小説界はどんな状況であったか。
いわゆる社会派ミステリーの流行以来、推理小説の取材がますます拡大されて、産業経済物、法廷裁判物、スパイ物、海洋山岳物など、多彩な範囲にわたっている。例えば藤村正太は「外事局第五課」で、南ベトナムへの武器輸出をとりあげ、三好徹は「野望の猟犬」で、ダムの不正入札をめぐって、政界財界のくされ縁にメスを入れている。作家は国際・国内の政治まで、ミステリーの対象にするなど、旧時代の探偵小説が個人や一家内の軋轢抗争を描いてばかりいたことを思えば、社会小説への密着が指摘されよう。
推理小説の社会小説化、風俗小説化が滔々たる風潮だとすれば、その純粋種の維持が深刻な問題となるだろう。昭和四十年を顧みて、推理小説として目ぼしい収穫がどれだけあったろうか。雜誌は減ったまままだし、叢書シリーズの企画も新鮮味に乏しかった。「横溝正史傑作選集」(東都書房)、「角田喜久雄事件小説シリーズ」(青樹社)、「山田風太郎推理全集」(東京文芸社)、「梶山季之傑作シリーズ」(講談社)、「黒岩重吾傑作シリーズ」(講談社)、「戸川昌子傑作シリーズ」(講談社)、「笹沢左保選集」(芸文社)、「大藪春彦活劇選集」(徳間書店)、「日本推理小説代表作選集」(光文社)などがあったが、ほとんどが場当りのもので、周到な用意をもって編まれたものではなかった。
まあ、そういうことだったようです。
中井英夫といえば、鶴見俊輔さんの訃報が伝えられました。
日本推理作家協会賞のことが書かれておりますので、毎日の記事を無断転載。
毎日新聞 > ニュース > 総合 > 記事
訃報:鶴見俊輔さん93歳=哲学者、評論家
毎日新聞 2015年07月24日 09時26分(最終更新 07月25日 04時37分)
鶴見俊輔さん=2007年、幾島健太郎撮影
写真特集へ
思想史や大衆文化論で独自の思想を展開し、反安保、反戦平和など戦後の市民運動で中心的な役割を果たしてきた哲学者で評論家の鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ)さんが20日午後10時56分、肺炎のため京都市内の病院で死去した。93歳。遺言により葬儀は行わず、22日、近親者で火葬を終えた。
父は、政治家で厚相(現厚生労働相)も務めた祐輔、母方の祖父は、満鉄(南満州鉄道)の初代総裁で外相なども歴任した後藤新平。1922(大正11)年、東京で生まれた。15歳で渡米し、42年、ハーバード大哲学科卒。日米開戦後、米当局にアナキスト(無政府主義者)の容疑をかけられ逮捕されるが、同年に日米交換船で帰国した。戦後の46年、社会学者で姉の和子や経済学者の都留重人(つる・しげと)、政治思想家の丸山眞男らと雑誌「思想の科学」を創刊(休刊は96年)。同時に思想の科学研究会を設立し、「転向」についての共同研究など独創的でユニークな研究を主導した。
京大助教授を経て、54年に東京工業大助教授になるが、60年、安保改定強行採決に抗議し辞任。61年に同志社大教授になったが、70年、学園紛争での機動隊導入に抗議して再び職を辞した。原水爆禁止運動など反戦平和運動の他にも、ハンセン病患者の社会復帰のための運動などに参加した。
特に、65年には小田実らと「べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」を結成し、米国のベトナム侵攻に抗議するとともに脱走米兵を援助した。
米国のプラグマティズム(実用主義)の思想を日本に紹介。狭義のアカデミズムの枠にとらわれず、民衆の意識や関心に視点の中心を据え、日本社会の近代化の過程を分析した。当初、米国の論理学者、C・S・パースらのプラグマティズム論理学に依拠して議論を展開したが、「日常的思想の可能性」(67年)、「限界芸術論」(同)、「漫画の戦後思想」(73年)などで大衆文化を掘り下げ、日本人の思考様式の非合理性を批判した。04年6月には、憲法第9条を守る「九条の会」の呼びかけ人(9人)に名を連ねた。
転向の意味を問い直した「戦時期日本の精神史」で82年の大佛次郎賞を受賞。90年、「夢野久作」で日本推理作家協会賞、94年度に朝日賞、07年度には「鶴見俊輔書評集成」(全3巻)で毎日書評賞を受賞した。
他の主な単著に「不定形の思想」、「アメリカ哲学」、「柳宗悦」、「戦後日本の大衆文化史」、「鶴見俊輔集」(正・続、全17巻)など多数。
個人的には1979年の平凡社選書『太夫才蔵伝 漫才をつらぬくもの』が印象に残っておりますが、ここはやはり、ご冥福をお祈り申しあげつつ、2010年の岩波新書『思い出袋』から引用。
戦中の杖
江戸川乱歩(一八九四ー一九六五)は、大正から昭和にかけて探偵小説家の代表だったが、時代が窮屈になって、作家としての活動をせばめられた。しかし乱歩は、 軍国主義に押しつぶされる作家ではなかった。この時代の中で、彼は自分の内部に降りてゆき、まったく自分本位の『貼雑年譜』九冊をつくる。軍国時代に、乱歩は、自分が有名だった時代の新聞広告を切り取り、貼りまぜてたのしんでいた。かつての名声が戦中の彼の支えとなる。
昭和五年(一九三〇年)、三十六歳。
「大イニ調子ヲ下ゲ、大イニ虚名ヲ売リシ年。」「初メテ講談社ノ雑誌ニ執筆〔それまでは『新青年』が多い〕。オ世辞ト稿料ニコロビシ也。」
そしてそこに広告を貼る。
〈小説読むなら講談倶楽部 江戸川乱歩先生名作発表。奇々怪々!素敵に面白い大探偵小説『蜘蛛男』 美人の行方不明!謎の大犯罪!〉
この小説を子どもの私は胸をおどらせて読んでいた。
以下、もう少しつづきますが、朝からむしむしと不快に暑いため、ええもう面倒な、とやけになって略します。
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