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Nabari Ningaikyo Blog
Posted by - 2024.11.23,Sat
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Posted by 中 相作 - 2015.02.04,Wed

 1月31日、名張市武道交流館いきいきで催された尾西康充先生の講演会の話題、先日のつづきです。

 新聞報道によれば、正確な入場者数は九十一人でした。

 演題は「江戸川乱歩の21世紀」、テーマは次のふたつでした。

 (1)社会の格差と乱歩

 (2)表現の自由と乱歩

 つまり、21世紀のわれわれが直面している問題は、かつて乱歩が向き合っていた問題でもあった、ということで、まず、トマ・ピケティさんの著作をまくらにした格差の問題。

 格差と乱歩といえば、こんな映画が思い出されます。

 お暇でしたらどうぞ。


 スポットがあてられたのは鳥羽時代の乱歩で、乱歩の生涯のうち鳥羽で過ごした時期はもう少し重視されるべきだろう、と尾西先生。

 たしかに鳥羽は、乱歩が奥さんと出会った場所、といった印象で認識されることが多く、作品とのかかわりは、「パノラマ島奇談」や「算盤が恋を語る話」の舞台装置として語られるくらいです。

 乱歩と鳥羽についておさらいしておきますと、乱歩は大正6年の11月、父親の知人の世話で鳥羽町にあった鳥羽造船所に就職します。

 配属は電気部庶務係でしたが、技師長だった桝本卯平の知遇を得て、かなり気ままな勤めを容認されました。

 で、同僚と遊興にふけったり、鳥羽おとぎ倶楽部を結成して、劇場や小学校でイベントを催したり、といったあたりのことは、こちらでもご確認いただけます。

 名張まちなかブログ:江戸川乱歩年譜集成 > 大正7年●1918

 乱歩が編集にあたった雑誌「日和」の第一号は、発行日が11月15日。

 伊勢新聞の新刊雑誌評で、鳥羽造船所と鳥羽町の「意志疎通円満ならしめ以て会社の隆昌と鳥羽の繁栄とに資せんとしたるもの」と紹介されたとおり、在来の住民と鳥羽造船所のニューカマーとのあいだに生じていた不和をやわらげることが発刊の目的でした。

 12月15日付の「日和」第二号の巻頭に、乱歩は「厖雑より統一へ」と題した評論を発表しますが、ここに鳥羽暴動が登場します。

 ちなみに、「厖雑」は「ぼうざつ」と読み、「入りまじって雑然としていること。また、そのさま。乱雑」と手もとの辞書にあります。

 鳥羽暴動の発生はこの年、つまり7月に富山県で発生した米騒動が全国にひろがりをみせた大正7年の11月7日でした。

 尾西先生によれば、鳥羽造船所で働く職工は多額の賃金を得て景気がよく、地元の人間はそうではない、という格差が生じていて、職工相手には家賃や諸物価を高くすることが常態化、職工は町民に悪感情を抱いていたとのことです。

 11月7日、そうした悪感情がついに爆発し、職工約二百人が町内二百九十戸あまりを破壊するにいたりました。

 被害がもっとも甚大だったのは、職工と地元民とのあいだに異なる価格を設定して暴利をむさぼっていた料理旅館で、逆に床屋と風呂屋とは、職工をわけへだてしなかったため被害をまぬがれたといいます。

 鳥羽暴動は「日和」第一号発行日の八日前、ということになりますが、記事として取り扱われたのは第二号でした。

 その巻頭で、乱歩は、

 「過般職工対鳥羽町民の軋轢が、所謂鳥羽暴動と顕れた」

 と鳥羽町を震撼させた一大事件をとりあげ、

 「要するに鳥羽暴動は結果に於て、鳥羽町と我会社との融和統一を齎したものと云ひ得る」

 と論じて、

 「更らに言ふ。我等は今や統一に努力すべき時代に入たのである」

 と結んでいます。

 それほど簡単に融和統一がもたらされはしなかっただろうな、と思われますが、鳥羽造船所が発行する雑誌としては、雨降って地固まる、みたいなことを書くしかなかっただろうな、とも思われます。

 とはいえ、暴挙には直接加わらなかったにせよ、乱歩が鳥羽造船所の社員として、つまり当事者のひとりとして、鳥羽暴動にかかわっていたことは事実で、それが乱歩に影響を与えたのではなかったか、というのが尾西先生の推測です。

 配布資料のひとつ、尾西先生の「江戸川乱歩と鳥羽騒動私見」から、ちょっと長くなりますが、結びを引用。

 では、この暴動の当時、乱歩は何をしていたのだろうか。職工ではなく、事務職であった乱歩が暴動に直接的に参加したとは考えられない。『貼雑帖』を読めば、まったくちがった相貌がみえてくる。乱歩によれば、「大正七年秋デアツタカ、物価騰貴ノタメ月給ガ一躍三倍程ニ上ツタコトガアル。ソコデ私ノ収入ハボーナスヲ加算スルト百円程ニナツタ。ソンナコトカラデアラウ、同年十一月ニハ鳥羽町ノ松田トイフ金持医師ノ別荘ヲ二十円ホドノ家賃デ借リ受ケ、一人デソコニ住ムコトニシタ」という。つまり、この時期の乱歩は──それまで(ボーナス)を除く)月給は二十円であった──贅を存分に味わう側にいたのである。
 さらに『貼雑帖』には、鳥羽造船所を退職する際に、「退職金ハ僅カ三百円程デアツタガ、鳥羽ノ料亭ソノ他ノ借金ハ千円ニモ上ツテヰタノデ、到底支払ヒヲスルコトガ出来ズ、ソノ返済ハ後日ヲ期シテ、ソノマヽ東京ヘ出タノデアル」とある。職工が打ちこわしに向かった料亭で、乱歩は享楽生活を送っていたのである。
 労働運動に関する記事を執筆する一方、料亭で一〇〇〇円もの借金を抱えるまでに放蕩していた乱歩は、何を見ていたのだろうか。インフレの嵐のなかで生活格差が拡大し、人びとは互いに嫉み、疑い深くなっていた。乱歩の作品に登場する高等遊民の主人公は、「貧すれば互いのルールも破られるのである。また、貧しい者が貧しい友人をたたきのめすこともあるだろう」(10)(松山巖氏)と見透かせるような視点を持っていた。
 鳥羽町では一九一七年一二月二〇日に、一八四戸三九一棟を焼失させる大火もあった。そして一八年には、米価が年間二倍になっただけでなく諸物価も一斉に上昇し、一般賃金も倍増していた。たとえば、鳥羽町の洋服仕立職人の日当は、一九一八年三月の九〇銭が一九年三月には二円二〇銭、大工の日当も一円から二円に上がった。公務員や教員に対して、年度途中から三〜五割の臨時給与を支給することになったため、鳥羽町の歳出は一九一七年度の一六四二万円から一八年度の三〇五八万円、二〇年度の四六二一万円へと急増することになったとされる(9)。
 乱歩が鳥羽を去った一九一九年の五月、鳥羽造船所製罐部の職工たちが労働争議を起こした。第一次世界大戦中に実施した賃金二割増を会社側が一方的に打ち切ったとに、職工が反発したからであった。一九一八年一一月一一日に大戦が終結し、大不況の波が日本社会を飲み込もうとしていた。この年には、石川島造船所、神戸川崎造船所・兵庫分工場、長崎三菱造船所、三菱神戸造船所、三井物産玉造造船所、播磨造船所でも労働争議が起こっていた。
 他方、乱歩に雑誌編集の仕事を与えた桝本卯平は、一九一九年一〇月、第一回国際労働会議に労働者代表として出席するために渡米した。政府の水面下の工作によって選ばれた桝本は、官選代表として労働組合から非難されていた。帰国後、「労働王桝本氏が宿論の理想的自治工場を名古屋に設立」という見出しの記事が「新愛知」(一九二一年五月三〇日)に掲載されている。桝本によれば、「工業自治は労働者の最も自覚したもので資本主の工業の材料を提供したものに依つて労働者が作業しその利益金は資本主と労働者が対等で分配し労働者は又その利得金の一部を割つて積立てゝ一つの別個財産にして病気其他の用意金にして居る」という。労働争議が頻発化し、労使関係が大きな社会問題になってゆくなか、桝本はみずから工場を設立し、自己の理想を実現させようとした。その一方、理想とは懸隔した境域に着目し、人間の内奥に潜んでいる衝動や欲望──たとえば〝変態的な犯罪嗜好癖〟など──を推理小説のなかで巧みに描き出そうとしたのが乱歩であった。

(4)『鳥羽市史』下巻(鳥羽市史編纂室、一九九一年三月、一九三頁)
(9)(4)と同じ、一八八頁
(10)松山巖『乱歩と東京 一九二〇 都市の貌』(一九九四年七月、筑摩書房、八一頁)

 乱歩は大正10年、日本工人倶楽部の書記長に就任し、機関誌「工人」の編集に従事、頻発する労働争議に着目して、8月号を「最近労働争議記録号」として発行しています。

 名張まちなかブログ:江戸川乱歩年譜集成 > 大正10年●1921

 乱歩は格差社会を生き、労働問題への興味を持続させていましたが、それを桝本卯平のように資本家と労働者の対立という単純で直接的なテーマとして捉えるのではなく、格差のなかに生きる人間の内奥に眼を向け、そこに潜む衝動や欲望を描き出すことを選んだ、というのが尾西先生の結論でした。

 そういえば、と思い出されるのは「二銭銅貨」で、朝日新聞の記者に化けてさる工場の職工の給料をまんまとせしめた紳士盗賊は、支配人からまさしく職工待遇問題を取材しておりましたが、あのシーンには「日和」と「工人」で編集者として労働問題にかかわった乱歩の実体験が投影されていたはずですし、鳥羽で享楽や放蕩、つまり贅沢の味をおぼえたあとに職業を転々し、執筆当時は父親の家でニート生活を送っていた乱歩個人の境涯を考え合わせれば、

 「あの泥棒が羨しい」

 という冒頭の一文も、身をもって格差を生きた人間の言葉として、新たなアクチュアリティを帯びてくるようにも思われます。

 以下、つづきますが、ひとつ余談を記しておくと、鳥羽暴動が発生した当時、乱歩は弟ふたりと古本屋を開く計画を練っていました。

 鮎川哲也の『幻の探偵作家を求めて』に収められた「乱歩の陰に咲いた異端の人・平井蒼太」には、末弟の敏男から取材したこんなエピソードが記されています。

 「兄が鳥羽造船所に勤めていた頃、われわれ下の兄弟もみかん山の麓の借家に住んでいました。ある夜、町の若い衆の造船所に対する反感が爆発して、ビストルをぶっぱなす事件が起りました」
 造船所の職員が高給をとっている、しかも購買組合でものを安価に買っている、といったことが原因だったようである。
 「ピストルの音を聞いたわたしはびっくりして裏のみかん山へ逃げ込んだのですが、兄(蒼太氏)は家の中の火の始末をしてから、遅れてやって来ました。そのときわたしは、やはり兄だけのことはあるなあと感じたものです」

 敏男の言がどこまで事実を伝えているのか、そのあたりのことはよくわかりません。
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