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Nabari Ningaikyo Blog
Posted by - 2024.11.24,Sun
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Posted by 中 相作 - 2014.04.11,Fri

 またふたたびのご案内。

海野十三先生没後65年◎江戸川乱歩先生生誕120年★特別記念大企画
海野十三忌2014★中相作講演会

「永遠の十三~海野十三と江戸川乱歩」

日時◎2014年5月17日(土)14時半開演(開場14時)

会場◎北島町立図書館・創世ホール 2階ハイビジョン・シアタ-
   771-0207徳島県板野郡北島町新喜来字南古田91
   (北島町役場となり)
   電話088・698・1100

入場料◎無料(申し込み不要)

講師◎中相作(なかしょうさく 江戸川乱歩研究家、名張人外境主宰者、
       名張市在住)

演題◎「永遠の十三~海野十三と江戸川乱歩」

主催●海野十三の会(小西  電話088・698・2946)

 こちらも再度。

講師プロフィール●中 相作(なか・しょうさく)一九五三年三月二十四日、三重県名張市生まれ。二黒土星。牡羊座●生まれた家は、江戸川乱歩が一八九四年に誕生した新町の隣町にあり、少年時代には一九五四年建立の乱歩生誕地碑の前を通って精養軒という肉屋へおつかいに行ったりもしたものだが、一九六一年に女性五人が殺害された名張毒ぶどう酒事件の発生現場からはかなり隔たった地点に位置していた。三重県立上野高校卒業●編集業。元名張市立図書館嘱託。『乱歩文献データブック』『江戸川乱歩執筆年譜』『江戸川乱歩著書目録』(以上、名張市立図書館発行)を編集、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(乱歩蔵びらき委員会発行)を監修。ウェブサイト「名張人外境」(更新停止)、ウェブログ「名張人外境ブログ」を開設●六十一歳、名張市在住●講師コメント「乱歩生誕百二十年の今年、乱歩が早稲田大学在学中に執筆し、みずから清書して製本した手製本『奇譚』の活字化をもくろんでいるが、前途まことに多難です。海野十三忌講演会では、驚異の大ベストセラーとなって映画も大ヒット中らしい『永遠の〇(ゼロ)』にあやかり、『永遠の十三』と題しておはなしすることになりました。先着五十名様には乱歩ゆかりの二銭銅貨煎餅をプレゼントいたします。なにとぞよろしくお願いします」●

 色つきテーブルが楽しいな、と思ってやってみました。

 さて、「永遠の0」のむこうを張って「永遠の十三」をやるわけですから、勉強のために十三の敗戦日記を読み返してみたんですけど、えッ? ええッ? とびっくりしましたばい。

 十三は敗戦に臨んで妻子とともに自決することを考えていた、というのは知る人にはよく知られた事実だと思いますが、死の淵から引き返して生に向き直る直接のきっかけはなんであったか。

 中公文庫の『海野十三敗戦日記』から、ちょっと引用してみます。

 八月十一日
◯海作班第三準備会にて我家に集合。倉光(俊夫)、間宮(茂輔)、角田(喜久雄)、湊(邦三)、村上(元三)、鹿島(孝二)、摂津(茂和)、小生の八名集まる。
 今日は宿題を検討する予定なりしが、それよりもソ連の参戦、原子爆弾のことの方が重大となったので、このことを検討す。
 「天皇に帰一し奉れ」という湊君の説、「生きぬいて作家として新しき日本を作る基礎をつくれ」という間宮君の説、いずれもまじめで真剣。
 「全員戦死だ」と最後に倉光君が口を開く。「時と所を異にして……」。一同感慨無量。
◯夜半、盛んに起される。最後に侵入の一機も、原子爆弾を抱いてくるかもしれぬとて「とくに警戒を要す」と放送がある。しかし何事もなく、くたびれ果てて、泥のように眠った。むし暑い夜。

 八月十二日
◯十日米英、首都において緊急会議開催と、朝刊が報じている。和平申し入れが討議されているものと思われる。
 いかなる条件を付したかわからぬが、国体護持の一点を条件とするものらしいことが、新聞面の情報局総裁談などからうかがわれる。
 午後二時迄に、その返答が米英から届くそうだと、新田君が来ていう。
◯とにかく、遂にその日が来た。しかも突然やって来た。
 どうするか、わが家族をどうするか、それが私の非常な重荷である。
◯女房にその話(※家族全員で死ぬこと)をすこしばかりする。「いやあねえ」とくりかえしていたが、「敵兵が上陸するのなら、死んだ方がましだ」と決意を示した。
 それならばそれもよし。ただ子供はどうか?
 子供も、昨日のわが家の集会を聞いたと見え、ある程度の事情を感づいているらしい。「残っているものを食べて死ぬんだ」といったり「敵兵を一人やっつけてから死にたい」という晴彦。(※長男)
 青酸加里の話まで子供がいう。私はすこし気持ちがかるくなったり、胸がまた急にいたみ出したりである。
 暢彦(※次男)は学校で最近「七生報国」という言葉を教わって来たので、しきりにそれを口にする。私も「七生報国」と書いて、玄関の上にかかげた。
◯自分一人死ぬのはやさしい。最愛の家族を道づれにし、それを先に片づけてから死ぬというのは容易ならぬ事だ。片づける間に気が変になりそうだ。しかしそれは事にあたれば何でもなく行なわれることであり、杞憂であるかもしれぬ。

 八月十三日
◯朝、英(※夫人)と相談する。私としてはいろいろの場合を説明し、いろいろの手段を話した。その結果、やはり一家死ぬと決定した。
 私は、子供達のことを心配した。ところが英のいうのに、かねてその事は言いきかしてあり、子供たちは一緒に死ぬことにみな得心しているとのことに、私は愕きもし、ほっとした。そして英からかえって「元気を出しなさいよ」と激励された。
 事ここに決まる。大安心をした。
 しかしそうなると、どっと感傷が湧き出るとともに、さらになお、何かの誤りが責任者の私になきやと反省され、完全に朗かにはなりきれなかった。
 この夜も、よく眠れなかった。

 八月十四日
○万事終る。
○湊(邦三)君と街頭で手を握りあって泣く。

 八月十五日
○本日正午、いっさい決まる(※終戦のラジオ放送)恐懼の至りなり。ただ無念。
 しかし私は負けたつもりはない。三千年来磨いてきた日本人は負けたりするものではない。
 ○今夜一同死ぬつもりなりしが、忙しくてすっかり疲れ、家族一同ゆっくりと顔見合わすいとまもなし。よって、明日は最後の団欒してから、夜に入りて死のうと思いたり。
 くたくたになりて眠る。

 八月十六日
○湊君、間宮君、倉光君くる。湊君「大義」を示して、われを諭す。
○死の第二手段、夜に入るも入手出来ず、焦慮す。妻と共に泣く。明夜こそ、第三手段にて達せんとす。
○良ちゃん、しきりに働いてくれる。

 八月十七日
○昨日から、軍神杉本五郎中佐の遺稿「大義」を読みつつあり、段々と心にしみわたる。天皇帰一、「我」を捨て心身を放棄してこそ、日本人の道、大楠公が愚策湊川出撃に、かしこみて出陣せる故事を思えとあり、又楠子桜井駅より帰りしあの処置と情況とを想えとあり。痛し、痛し、又痛し。
○昨夜妻いねず、夜半に某所へ到らんとす。これを停めたる事あり。
 妻に「死を停まれよ」とさとす。さとすはつらし。死にまさる苦と辱を受けよというにあるなればなり。妻泣く。そして元気を失う。正視にたえざるも、仕方なし。ようやく納得す。われ既に「大義」につく覚悟を持ち居りしなり。

 八月十八日
○井上(康文)、鹿島(孝二)君来宅。
○熱あり、ぶったおれていたり。

 八月十九日
○村上(元三)君来宅。
○岡東宏君来る。うれし。
○ようやく気もだいぶ落付く。されど、考えれば考えるほど苦難の途なり。任はいよいよ重し。 ○夜半、忽然として醒め、子供をいかにして育てんとするかの方途を得たり。長大息、疲労消ゆ。有難し、有難し。
○けさ、広島惨害写真が新聞に出た。

 八月二十日
○熱は少しく下がりしようなるも、体だるし。英も疲労し、やつれ見え、痛々し。しかし今日割合元気になりぬ。
○宮様(※東久邇宮稔彦首相)又もや御放送。
○「大義」を村上先生(医師)へ、「大義抄」を奥山老士へ貸す。
○「維摩経新釈」を読みはじむ。

 みたいなことなんですけど、なんで楠木正成が出てくるんだろうな、とびっくりしてしまいましたばい。

 それで、考えてみたんですけど、十三は死のうと思っていた。

 しかし、生への執着もあった。

 死ぬべき自分が生きつづけることを正当化するためには、まさしく大義が必要であった。

 友人から手渡された杉本五郎の『大義』を読んでみたところ、戦前に日本史の教育を受けた人間にとってはもっともポピュラーなエピソードのひとつだった桜井の別れが、にわかに胸に迫ってきた、というようなことだったのかどうか。

 十七日付の日記には「楠子桜井駅より帰りしあの処置と情況とを想え」とあって、この「楠子」は正成自身のことではなくて、正成の子、つまり正行のことだと判断すべきだと思われますが、湊川の戦いに赴く正成が正行に、おまえは河内に帰れと、おまえは死ぬなと、生きて後醍醐に忠誠を尽くせと、そんなようなことを諭したというエピソードに自身を重ね合わせることで、十三は生きることを正当化し合理化することを得た、というようなことであったのかなかったのか。

 どうもよくわからぬものの、海野十三はいうまでもなく理系のひとで、早稲田の理工を出たといいますから、いまやマスメディアで人気沸騰、小保方晴子さんの先輩筋にあたるわけですけど、みたいなことはともかくとして、科学のひとであり論理のひとであった海野十三が、七生報国だの天皇帰一だの、はては青葉繁れる桜井のだの、はたしてそんなところに生の基点をみいだすものかしら。

 もっとも、十三の探偵小説観を確認してみると、海外の読者は科学知識を身につけているから謎解きを主眼とした本格探偵小説を好むけれど、日本では科学知識が普及してないから純粋な本格ではない探偵小説が歓迎されるのである、といったようなことを昭和9年あたりから主張していますから、その説に従えば十三自身もまた日本人であった、ということになるのかもしれません。

 講演本番までに、もう少し考えてみたいと思います。

 なお、十三の日記の引用は橋本哲男編『海野十三敗戦日記』(2005年、中公文庫)を底本といたしましたが、海野十三全集版の日記は青空文庫で読むことができます。

 青空文庫:海野十三敗戦日記

 上の引用にあたってもこの青空文庫版の日記を開き、いまやマスメディアで人気沸騰、小保方晴子さんのいやいやそんなことはどうでもいいんですけど、いわゆるコピペのソースとしたことをここに明記しておきます。
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