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Posted by 中 相作 - 2014.04.05,Sat
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MSN産経ニュースwest
 平成26・2014年3月30日 産経新聞社、産経デジタル

連続射殺魔「永山則夫」 思いこみの果てに
 福島敏雄、安元雄太(写真)
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【河内幻視行】

連続射殺魔「永山則夫」 思いこみの果てに

2014.3.30 12:00 (1/3ページ)[福嶋敏雄ワールド



四季の花々が咲きみだれる桃町緑道公園(安元雄太撮影)

『明智小五郎誕生地』という文学碑もあった…から続く

 江戸川乱歩の居宅跡のちかくにある公園は「桃町緑道公園」(大阪府守口市梅町)と呼ばれる。幅3メートルほどで、淀川の堤跡らしく、うねうねと曲がっている。両側には住宅が建ち、やがて高層のマンションがつづく。

 淀川の堤にいたるまで、700~800メートルほどつづく。灌木(かんぼく)を中心に、四季の花々が植えられている。シシガシラ、ヒイラギモクセイ、ドウダンツツジ、ハクチョウゲ、ヤブツバキ、ユキヤナギ--などと書けるのは、幹などにプレートが掛けられていたからだ。

 昭和41(1966)年1月末の日曜日、釣り竿(ざお)やブリキ製のバケツを持った3人の少年たちがこの緑道を、淀川を目ざして歩いていた。そのなかに、片方の肩をかしげながら歩く16歳の少年がいた。

 身長は160センチと小柄で、顔はやや下アゴがはっていた。目は大きく、女の子のようにも見える。それ以前の勤務先で、ゲイの男に見そめられこともあった。

 緑道は、松町、梅町、桃町、新橋寺町とつづく。少年たちは、やがて石段を登って、淀川の土手に出た。川岸のあちこちに水たまりがあり、白い魚が泳いでいた。

 16歳の少年は、釣りがはじめてだった。仲間に教えられ、いちばん短い釣り竿にミミズをつけた針を13本もつけ、緑色に濁った水たまりにたらした。

 たちまち全部の針に、魚が引っかかった。仲間の少年がやってきて、「すごいやんかァ」とのぞいた。伏し目がちの少年は、はにかんだ表情で仲間を見あげた。

女優の岩下志麻と面識も…「被害念慮」

 少年は前年春、青森県板柳町から集団就職で上京し、池袋の高級青果店で働きはじめた。常連客のなかには、女優の岩下志麻もいた。だが長続きはしなかった。

 板柳町の小、中学校では、ほとんど登校しなかった。窃盗をはたらき、補導されたこともある。その非行歴がバレたと思いこみ、突然、青果店を辞めてしまう。

 この思いこみは、精神医学でいう「被害念慮」にちかかった。つづいて牛乳配達店などで働くが、すぐに辞め、やがてヒッチハイクをしながら大阪にやってきた。

 大阪駅で知りあった親切な男に紹介され、守口市内の店で、住み込みで働きはじめた。しばらくして、住み込み仲間にさそわれ、釣りに行ったのである。

連続射殺魔「永山則夫」 思いこみの果てに

2014.3.30 12:00 (2/3ページ)[福嶋敏雄ワールド

 外見上は充実した日々であった。給料は1万5千円と、好条件であった。だがここでも、被害念慮が泡立つようにわきたった。

 そろそろ、少年の名前を書かなければならない。のちに連続射殺魔と呼ばれるようになった永山則夫である。

 淀川での釣りの場面をふくめ、以上の記載は永山自身が大阪時代のことを書いた小説『異水』をはじめ、公判記録や精神鑑定書などによった。


 繁華街の一画に、その建物はあった。さしさわりがあるかもしれないから、場所や建物名は書かない。

 就職当初、永山は熱心に働いた。「大将」と呼ばれた社長も正式に雇用しようと思い、戸籍謄本を取り寄せるように命じた。

 だが板柳町の母から届いた謄本を見て、永山は愕然(がくぜん)となった。そこには、

 「北海道網走市呼人番外地生」

 と書かれていた。当時、高倉健主演の映画「網走番外地」がシリーズで公開されていた。「♪春に 春に追われし 花も散る」ではじまり、「その名も 網走番外地」でおわる歌も大ヒットしていた。

 「俺は、刑務所で生まれたのかっ!」(『異水』)と思いこんだ永山は、とても大将には出せないと、自室の机の奥にしまいこんだ。思いこみは、さらにつづく。

 やがて大将や周囲の仲間から、疑心の目でにらみつけられていると思いこむ。刑務所生まれだと知られたと思いこむ。大将の息子が東京の大学に合格し、上京すると、最初に働いた青果店に身元調査に行ったのではないかと思いこむ。

 思いこみの連鎖の果て、被害念慮は、やがて「被害妄想」に行きつく。その年の7月、身元調査されているという妄想をいだき、店を飛びだした。10カ所以上も職を転々とした永山としては、よく居続けたほうである。

 1年2カ月後、東京にはじまり、京都、函館、名古屋で、警備員やタクシー運転手をあいついで射殺した。被害妄想に幼少時の被虐体験がネットリとからみつき、いまでいうPTSD(心的外傷後ストレス障害)におちいっていたのであろう。

連続射殺魔「永山則夫」 思いこみの果てに

2014.3.30 12:00 (3/3ページ)[福嶋敏雄ワールド

四季の花々が咲きみだれる桃町緑道公園(安元雄太撮影)

 --京阪守口市駅に接するように、三菱東京UFJ銀行があった。当時は前身の三和銀行だったのではないだろうか。『異水』には、駅ちかくの三和銀行に定期口座をひらき、せっせと貯金していた、とあるからだ。

 母親に仕送りもしていたが、まじめに働いていたため、預金額は4万円になっていた。

 被害妄想におちいらなければ、いまでもこのあたりに住み、年金生活を送りながら、淀川で釣りでも楽しんでいたと「思いこみ」たい。

(福島敏雄)

=続く


 【用語解説】連続射殺事件の永山則夫死刑囚

 昭和24(1949)年、北海道網走市生まれ。40(1965)年集団就職で上京、職を転々とし、43年横須賀海軍基地でピストルを盗み、ガードマンを射殺したのを最初に、京都、函館、名古屋で計4人を射殺。当時19歳で未成年だが、指名手配後に実名で報道された。44年強盗殺人容疑などで逮捕され、54年に1審で死刑判決。56年控訴審判決は無期懲役だったが、58年最高裁から東京高裁に差し戻しとなり、62年3月死刑判決、平成2(1990)年5月上告審で死刑が確定。判決確定8年目の9(1997)年8月死刑が執行された。

 昭和46(1971)年獄中で書いた手記「無知の涙」が刊行され、反響を呼んだ。55年12月文通を続けていた日系米国人と獄中結婚。58年自伝小説「木橋」で新日本文学賞受賞。61年1月に主任弁護人を解任、同年4月離婚。支援活動をしてきた諸団体とも決別した。平成2年日本文芸家協会に入会申請したが拒否された。8年にドイツの詩人、アルンフリード・アステルの推薦によってドイツのザール州作家同盟会員となる。他の作品に「破流(はる)」「異水」「陸の眼」などがある。

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