池袋駅西口界隈を会場にしたイベントの案内が立教大学のサイトにも掲載されておりました。
▼立教大学:イベント・講演会 > 第8回新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館開催(5月16日~29日)
うっかり「『幻影城』と呼ばれた土蔵」なんてことが書かれてますけど、ま、みなかったことにしておきたいと思います。
きょうあすの二日、ギャラリートークも行われますので、どちらさまもどうぞお運びを。
それにしても、去年までみたいな暑い盛りの開催ではなくなって、これでよかったのではないかと思います。
ちなみに、旧乱歩邸はこの本でも紹介されてます。
▼エクスナレッジ:文豪の家
つづきまして、竹中英太郎の話題です。
おふたりのかたからご教示をいただきましたので、さっそくお知らせ申しあげます。
まず一件目。
「宝石」の昭和33年10月号に「狐狗狸の夕べ」という座談会が掲載されてます。
▼名張人外境 > 乱歩文献データブック > 昭和33年●1958 10月
講談社の『乱歩 下』、学研M文庫の『黒蜥蜴』で読むことができますが、以下、学研M文庫のほうから杉村春子と乱歩の言を引用。
杉村 水谷準さんがやってらしたあの時分、怪奇な挿絵を描いた人があったでしょう。気持のわるくなるような絵。
江戸川 竹中英太郎でしょう。あの人は戦争中に満州へ渡ったと聞いているが、その後の消息がわかりません。なにかの右翼団体に関係していたようです。あの絵からはちょっと想像できないような政治的な性格があったのですね。
このくだり、読んだはずなのにまったく記憶してませんでした。
昭和33年の時点で乱歩は英太郎の消息を耳にしておらず、もしかしたらずっと知らないまま昭和40年に死去したのかもしれません。
つづきまして二件目。
昭和51年10月の「愛書家手帳」第三号に長瀬宝の連載「さし絵の中の女」第三回「陰獣の静子」が掲載されました。
▼名張人外境 > 乱歩文献データブック > 昭和51年●1976 10月
このページに言及があります。
長瀬宝が乱歩に英太郎の消息を尋ねたところ、「満州へ行って死んでしまったよ」との返事が返ってきたといいます。
ですから、そんな感じで口にしたことはあったとしても、竹中労が「竹中英太郎は満州へ行って死んだって書いちゃった」と話していたような事実、つまり乱歩がそういった文章を書いたという事実はなかったものと思われます。
満州へ渡って消息不明になったのであれば、たぶん死んじゃったんだろうな、と思ってしまうのは当然のことで、あれだけの才能のある画家が生きて帰ったのであれば、ふたたび絵筆をとってその消息が聞こえてくるはずだ、と乱歩は考えていたのかもしれません。
ちなみに、「愛書家手帳」は愛書家くらぶ発行所が発行した雑誌で、編集兼発行者は斎藤夜居。
「日本の古本屋」で検索してみると、「限定350部 創刊~13号(8、9は合併号) 12冊一括 発行者斉藤夜居 並」で二万一千円、とかだったりしますから、「陰獣の静子」のコピーがお入り用のかたはメールでお知らせください。
それでは本日はこのへんで。
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