おかげさまで、名張市内の中学校を舞台にした体罰がらみの一件をめぐる2ちゃんねるのスレ、めでたくdat落ちとなりました。
と思っていたら、今度はおとなりの伊賀市を舞台にしたスレが、と思っていたら、あっというまにdat落ちしてしまいました。
▼ニュース速報+:【三重・伊賀】「一回死んでみるか」歯科医脅した容疑の61歳(2013年2月19日)
いやはや。
モンスターペアレントのあとはモンスターペイシェント。
先生と呼ばれる稼業もなかなか大変みたいです。
しかし、「一回死んでみるか」というのは、そこはかとなくおかしい。
いやいや、喜んでる場合ではありません。
伊賀市とか、名張市とか、いったいどうなっておるのでしょうか。
こんな土地柄じゃ、とてもとても、まともなことは望めません。
よその土地でなら、ごくふつうにできてることも、ここらじゃ夢のまた夢、ということにもなりかねません。
よその土地でなら、そこらの高校の図書委員にでも……
いやいやいやいや、そんなことはまあいいとして、平井通がもう大変、という話なんですけど、藍峯舎の第一弾『赤き死の假面』につきましては、伊賀の忍びの末裔として、秘密は身命を賭して固く守り、藍峯舎のサイトが開設されるまでいっさい口外はしなかったわけですけど、第二弾『屋根裏の散歩者』のことはすでに予告されてますから、伊賀の忍びの末裔として、一回死んでみるか、とばかり、あることないこと書き殴って前宣伝にこれ努めたいと思います。
平井通という人物が世のミステリマニアの前に姿を現したのは、たぶん鮎川哲也の名アンソロジー『怪奇探偵小説集(III)』と名著『幻の探偵作家を求めて』によってではなかったかと思われます。
前者は1984年の刊行で、平井蒼太名義の短篇「嫋指」を収め、後者は翌85年に出版されたんですけど、この本に収録された「乱歩の陰に咲いた異端の人・平井蒼太」という鮎川哲也の文章が、じつはかなりの無茶苦茶で、大丈夫かおい、という内容になっています。
間違いが少なからず眼につくわけです。
一例だけあげておくと、鮎川哲也は乱歩の弟で母親の実家を継いだ本堂敏男にインタビューしてるんですけど、敏男がこんなことをしゃべった、ということになってます。
「団子坂で三人書房をやっていたときに兄は《D坂の殺人事件》を書き上げたのですが、『新青年』に送ったのに編集部からは何ともいってこない。そこで取り返して名古屋の小酒井不木さんに読んで貰い、それがきっかけで世に出られたのですから、小酒井さんの恩を忘れたことはなかったですね」
でたらめじゃねーかこんなもん。
鮎川哲也はこのインタビュー記事を書いたとき、『探偵小説四十年』にあたってみることをしなかったようです。
編集部もチェック入れなかったのかよ。
さらに鮎川哲也は、こんなことも記しています。
われわれの仲間で蒼太を知る者といえば、甥の松村喜雄氏、それに実兄の江戸川氏ぐらいのものでしかない。中島河太郎氏が「推理文学」に書かれた一文を読むと、乱歩氏死去の際、通夜に集った推理作家たちから離れた片隅に、独り坐っている老人の姿を見かけたが、いまにして思えばそれが平井蒼太だったという回想がある。氏を知る推理作家というとその程度のものでしかない。なおこの中島氏の文章は、推理小説のサイドから蒼太を取り上げ、その正体に迫った唯一のものとされている。
これも結構でたらめです。
「推理文学」に掲載された中島河太郎先生の「平井蒼太のこと」には、乱歩のお通夜のことはむろん記されていますけれど、実際はこんなです。
乱歩の亡くなった晩、私などが死亡広告の文案を練っていた傍らで、つくねんとしていた姿が眼前に髣髴としている。
わずかこれだけです。
だいたいが、これは天下の脚注王、村上裕徳さんに手紙を出して教えていただいたのですが、中島先生は乱歩のお通夜以前から平井通と面識がおありだったみたいですから、「いまにして思えば」もくそもありゃしませんがな。
鮎川哲也はいったいどうしてこんないいかげんな文章を書いたのか、私にはとんと合点が行きません。
鮎川哲也は大丈夫?
と思ってしまうゆえんですが、大丈夫じゃない人間なんてそこらじゅうにごろっちゃらしてるみたいで、知己友人が平井通の思い出を綴った文章をつきあわせてみると、なんかもう笑っちゃうくらい証言がまちまちです。
「D坂の殺人事件」で障子の格子越しに見えた着物が黒かったり白かったりしたみたいな感じで、「彼らの陳述はこの事件をますます不可解にするような性質のものだったのである」というしかありません。
とくに平井通の結婚にかんする証言は、証言者によってびっくりするほどの食い違いをみせていて、こーりゃ漫才にしたら絶対面白いな、と断言できるほど無茶苦茶なんですけど、それにしてもこーりゃ大変だあ。
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