やれやれ。
みんな死ねって思っていました、と二階堂ふみちゃんがぼそっとつぶやいたウェブニュースまで、ようようたどりつきました。
「脳男」の常軌を逸したパブリシティの嵐も、ようやく峠を越えたみたいです。
そのウェブニュースの波に呑まれてどっかへ行ってしまった先日のこのエントリ。
▼2013年2月8日:乱歩生誕百年記念イベントの真実
やや補足しておきますと、乱歩生誕百年記念イベントのミステリーウォーク、参加者は約八百人とのことで、これはすごい数字だと思います。
私はミステリーウォークに参加しませんでしたので、八百人もの人間が名張のまちにいっせいに解き放たれたらどんな光景が現出するのか、まのあたりにはできませんでしたけど、かなりの壮観だっただろうなと思います。
もっとも、二十年ほど前といえば、名張のまちもいまほどさびれてはおらず、ふだんでもまちのひとがふつうにそこらを歩いていたはずですから、死の町がいきなりよみがえった、みたいな感じではなかったはずですけど、それでも八百人というのはやはりすごい。
ちなみに先日、2月7日と8日は名張のまちに春を呼ぶといわれる八日戎が営まれて、まあポスターはこんな感じでした。
私は出かけなかったんですけど、足を運んだひとから聞いたところでは、びっくりするくらい人出が少なかったそうです。
まちBBSでもちょっとだけ話題になってましたけど。
▼○名張市について書き込んでみましょうPART13○:922-923
いやー、名張のまちもいよいよおしまいかあ。
それはそれとして、ミステリーウォークの件ですけど、あとで知ったところによれば、このイベントにあわせてSRの会というミステリファンサークルの全国大会が名張市を会場に催されたらしく、そのせいもあって人出が多かったのだと思われます。
ついでですから、乱歩生誕百年につづいて乱歩生誕百十年のことを記しておきますと、名張市ではとくにこれといって記念事業はありませんでしたけど、たまたま三重県と伊賀地域旧七市町村が血税三億円を気前よくどぶに捨ててしまった「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」がおこなわれましたので、三億円から五百万円がとこほどかすめとって『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』を世に送りました。
「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」は文字どおり血税をどぶに捨てるだけに終始した事業で、三重県と伊賀地域の黒歴史としてすっかり闇に葬られてしまっていますけど、ただひとつの救いとなった『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』はたしか乱歩生誕百十年記念出版ということになっていたと思います。
あのときから、来年でもう十年か。
先日も記しましたけど、この十年ほどでこの名張市、乱歩にかんして秘めていたなけなしの可能性をことごとくつぶされてしまった、という印象です。
生誕百年から百十年までの十年間も、はっきりいってろくなものではなかったんですけど、おそまつさはまだお役所のなかにとどまっていました。
ところが、まさに2004年の「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」あたりから民間のうすらばかがしゃしゃり出てくることが一般化し、官民双方のうすらばか同士がつるんでしまうともうだめ、うすらばかがそこらじゅうに解き放たれ、野放し状態になってしまってもうだめ、もう収拾がつかないわけ。
その象徴が2005年の夏、癒着結託の金城湯池となった名張のまちに忽然として現れたこれでした。
つづいて訪れたのが、みごとなまでの大失敗に終わってしまった名張市のまちなか再生事業であって、こうやってみると地域社会がうすらばかどものせいでどんどんどんどん可能性を失っていったことがよくわかりますけど、とにかくもういろんなことが終わっちゃったよね、みたいな感じですから、乱歩生誕百二十年だからってとくになんにもないとは思いますけど、多少なりとも期待をかけてくださっているかたは名張市に電凸、いやいや電凸はまずいですけど、名張市にメールかなにかでその旨をお伝えいただけると、意外な展開が待っているかもしれません。
しかしなあ、それにしてもなあ、ほんと、どいつもこいつもみんな死ねよ、とかいっぺん心からいってみたいな、と思います。
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