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Nabari Ningaikyo Blog
Posted by - 2024.11.23,Sat
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Posted by 中 相作 - 2010.10.30,Sat
 名張まちなかブログに先日、山梨県甲府市湯村にある竹中英太郎記念館の金子紫さんからコメントを頂戴しました。「紫」というお名前は「ゆかり」とお読みください。
 
 名張まちなかブログ:ゆすりたかりじゃおらおら(10月27日)> 無題(10月27日)
 
 紫さんは竹中英太郎のお嬢さんなのですが、ブログのコメント欄で英太郎の挿絵についてやりとりしているうち、昭和3年、英太郎が「新青年」編集長だった正史に出会い、乱歩の「陰獣」の挿絵を担当するようになったあたりのゆくたてをわかる範囲内でざーっと確認しとかなくちゃな、という気になりました。来月の講演で──と書いて気がついたのですが、このブログでは講演のことはまだお知らせしていませんでした。とりあえずこちらをごらんください。
 
 名張まちなかブログ:市民のみなさんありがとう(10月28日)
 
 われ、ゆすりたかりに成功せり。11月23日に神戸市の東川崎地域福祉センターで催される「横溝正史先生生誕地碑建立6周年記念イベント」では、名張市民の血税で購入した二銭銅貨煎餅、永久保存したくなる乱歩飴、そんなのいらないとかいわずにぜひお持ち帰りいただきたい名張市のPRパンフレット、以上をワンセットにして先着五十人の方にプレゼントいたします。どうぞお楽しみに。
 
 で、その来月の講演では「桐屋敷の殺人事件」から「陰獣」へというともに英太郎の挿絵で飾られた「新青年」掲載作品の流れについても考えてみたいなと思っておりますので、そのあたりのことを年表にまとめてみることにいたします。おもな参考資料は正史のエッセイ二本、すなわち「新青年」昭和3年11月号の「陰獣縁起」と「幻影城」昭和50年7月増刊号《江戸川乱歩の世界》の「『パノラマ島奇譚』と『陰獣』が出来る話」で、「陰獣」の脱稿を6月25日としているのは初出の末尾に、
 
 ──(昭和三・六・二五) 
 
 と記されているのが根拠です。
 
 ではでは、乱歩が三十四歳、正史が二十六歳、英太郎が二十二歳を迎えることになる昭和3年の「陰獣」年表、はじまりはじまり。
 
 5月1日、「苦楽」5月号の奥付発行日。「苦楽」はこの号を最後に廃刊。
 
 5月5日、「新青年」6月臨時増大号の発売日。ヒューム「二輪馬車の秘密」を掲載。
 
 5月6日、正史、「二輪馬車の秘密」の感想を記した乱歩の手紙を受け取る。
 
 5月7日か8日、正史、乱歩を訪ね、「新青年」増刊号に百枚程度の小説を依頼。「パノラマ島奇談」の二倍に当たる八円の原稿料を提示するも、乱歩は確たる返事をせず。
 
 6月5日ごろ、「新青年」7月号の発売日。正史が川崎七郎名義で書いた「桐屋敷の殺人事件」第一回が掲載され、挿絵は竹中英太郎。英太郎はこの号で甲賀三郎「瑠璃王の瑠璃玉」の挿絵も担当。
 
 6月25日、乱歩、「陰獣」を脱稿。
 
 6月末、正史、乱歩に手紙で原稿を催促。乱歩からほかの雑誌に書いている作品を「新青年」に廻してもいいとの返事が来る。正史が訪問すると乱歩は五、六十枚の原稿を見せ、この三倍、二百枚近く書きたいという。「6月末」というのは正史の記憶違いか。
 
 7月5日ごろ、「新青年」8月号発売日。「桐屋敷の殺人事件」は掲載されず、中絶。英太郎は甲賀三郎「ニウルンベルクの名画」の挿絵を担当。正史が書いた「陰獣」の予告が載る。
 
 7月21日、「新青年」夏期増刊号発売日。「陰獣」第一回が掲載され、挿絵は英太郎。
 
 7月24日、正史、「新青年」9月号の「編輯局より」を執筆、《増刊は発売後直ちに売切れた。今此の編輯後記を書いてゐるのは七月の二十四日、そして増刊が発売されたのは七月の二十一日であつた筈だ。だのに、既に品切れで追加註文に応じ切れないといふ話を今営業部の方から聞いた》。
 
 8月5日ごろ、「新青年」9月号発売日。「陰獣」第二回を掲載。正史はこの号を最後に「新青年」から「文芸倶楽部」へ移る。
 
 9月3日、「新青年」10月増大号発売日。この号から延原謙と水谷凖が編集を担当。「陰獣」第三回を掲載し、完結。
 
 10月5日ごろ、「新青年」11月号発売日。横溝正史「陰獣縁起」を掲載。「編輯局より」に《十月増大号は圧倒的のすばらしい売行だつた。何しろ三日発売のが、四日には市内の小売店に一冊も見当らず、五日には京阪方面から続々と大口の追註文が来るといふ始末、営業部はそれ再版それ三版と、まるで戦場のやうな騒ぎであつたが、何しろ印刷能力に限りがあるので、遂には現金を掴んで仕入れに来る市内の小売屋さんをさへ断つて帰さなければならない仕儀となつた》。
 
 以上のようなところです。
 
 さて、竹中英太郎はどうしていたのか。昭和10年9月に発表された英太郎の「『陰獣』因縁話」によれば、この年、プラトン社の「苦楽」に月給百円から百五十円程度で雇われる話がまとまり、いったん熊本に帰郷、母、姉、姪を東京に引き取ることを約束したものの、舞い戻った東京ではプラトン社の廃業と「苦楽」の廃刊が決められていました。途方に暮れた英太郎は近所に住んでいた橋本憲三から白井喬二を、白井喬二から「新青年」の横溝正史を紹介してもらい、小石川戸崎町の博文館を訪ねます。
 
 「蓬髪の小柄の青年、どこかに人懐こさをもった人」と描写されている正史は英太郎が差し出した「苦楽」の絵をしばらく眺めてから、「ちょっと待って下さい」と奥へ入ってゆき、やがて「苦楽の絵では新青年には困りますが、とにかくこれを書いてみて下さい」と分厚い封筒に入った原稿を手渡しました。以下、「『陰獣』因縁話」から引用。
 
私は呆気にとられた。予期しないことだけに言葉も出ないような嬉しさだった。救われた。万歳! と叫びたいような内心の感謝と喜びに、その原稿については別段深い注意もしなかつたのであるが、なんと驚くべきことに、その原稿こそは、江戸川乱歩久方ぶりの再起作、あの有名な「陰獣」だつたのである。
 
 これがいつのことだったのか、英太郎は月日を明示していませんから想像するしかないのですが、少なくとも「陰獣」が書きあげられた6月25日以降だということになります。だとすれば、しかし矛盾が生じます。6月5日ごろ発売された「新青年」7月号の誌面に、すでに英太郎の挿絵が掲載されているからです。すなわち、川崎七郎こと横溝正史の「桐屋敷の殺人事件」と甲賀三郎の「瑠璃王の瑠璃玉」、この二作の挿絵は紛れもなく英太郎の手になるものであり、それが6月上旬発売の7月号に載っているというのであれば、英太郎が「苦楽」を携え挿絵の仕事を求めて「新青年」編集部を訪れたのは、遅くともこの年5月でなければならなかったということになります。
 
 どう考えればいいのでしょうか。英太郎が正史から「陰獣」の原稿を手渡されたのは、博文館を初めて訪れたときのことではなかった、と判断するのが自然でしょう。白井喬二の紹介状を手に「新青年」編集部を訪れたとき、「とにかくこれを書いてみて下さい」と正史から手渡されたのは「桐屋敷の殺人事件」と「瑠璃王の瑠璃玉」の原稿だったはずで、英太郎はその挿画を仕上げて編集部に持参し、これが二回目の博文館訪問。つづいては「新青年」8月号に掲載された甲賀三郎「ニウルンベルクの名画」の挿絵を担当し、そのあと正史から託されたのが「陰獣」の分厚い原稿だったのではないかと思われる次第なのですが、実際のところはいったいどうだったのでしょう。
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