あぢーなー。
毎日あぢーなー。
死ぬほどあぢーなー。
とかいっててもしゃーないけど、きょうこそはほんと、乱歩の話題だけをつづろう、とぞ思う。
名張のまちで乱歩を語る
どうじゃ。
乱歩の話題じゃろうが。
7月8日、日曜日のことであった。
兵庫県からおいでになったお客さんに名張ゆかりの手みやげを、と名張のまちにあるとある商店へ買いものにおもむいた。
名張のまちは、あいかわらず、眠るがごとく静かであった。
よく晴れた日曜の午後だというのに、しーん、としていた。
さて、その商店で、店のひとから、今年のミステリ講演会はどうなっているのか、とお尋ねを頂戴した。
無理もないお尋ねだ。
名張市恒例のミステリ講演会「なぞがたりなばり」はとっくの昔におしまいになった、ということは、このブログをご覧いただいておる諸兄姉には周知の事実だけど、一般の名張市民には知られていない。
名張市が、なぜか、だんまりを決めこんでいるからだ。
不祥事とかそういうのではないんだから、堂々と発表すればよさそうなものなのに、隠蔽体質が骨肉と化している、ということか、とにかく市民はなにも知らされていない。
もっとも、ミステリ講演会に興味がある市民、なんてのがまず稀少種であって、かりに興味があったとしても、今年の講師はどなたかしら、みたいなレベルにとどまる程度であるはずで、毎回必ず足を運んでます、といった市民はたぶん、ただのひとりもおらんかったはずである。
だから、くだんのお尋ねも、どうしても知りたい、というわけではなくて、こちらにたいするお愛想めいたものではあったのであろうけれど、それはそれとして、事業の終了を名張市が発表しようとしないのは、いうまでもなくまずいことである。
名張市はなぜ、そんなまずいことをするのか。
まずいことばっか、しているのか。
そんなこと、わしゃ知らん。
しかし、こんな隠蔽めいたことばっかやってると、名張市はますます、市民の信、というやつを失ってしまうであろうな。
つか、もう失いつくしたか。
つぎ。
遅々としている
ぼちぼちやっとる。
▼名張まちなかブログ:Top
ご覧いただいたとおり、「江戸川乱歩年譜集成」、一年一エントリを原則として、誕生以前から昭和5年までたどりついた。
あゆみは遅々としている。
記載スタイルをあれこれ試しつつ作業を進めておるゆえ、これから先もスタイルに変更を加えることになるはずだが、ま、パイロット版のようなものだとお思いいただきたい。
へんてこなところがある
年譜作成の必要上、『探偵小説四十年』をぱらぱら読み返すことが多いのだが、事実誤認めいた記述が少なからずあることに、あらためて気づかされる。
たとえば、昭和3年。
甲賀三郎が「新青年」8月号に発表した「探偵小説はどうなったか」から自分への言及を引用し、当時の自分がどんな地点に立っていたのかを、いわばあたうかぎり客観的に紹介しようとしたくだりがある。
一段落だけ、引用する。
江戸川乱歩の沈黙は何と云っても探偵小説界の一大損失だった。今に書くだろうと云われながら、彼の沈黙は案外長く続き、先頃ちょっと復活を思わせたが、結局は駄目であった。〔註、「押絵と旅する男」の前稿を、名古屋の大須ホテルで、横溝君に渡さないで、便所へ捨てた一件を指すのであろう〕
「探偵小説はどうなったか」から引用した文章に、〔 〕を使用して乱歩の註が挿入されているわけだが、この註記がおかしい。
へんてこである。
なにがへんてこか。
まず、「押絵と旅する男」の原型となった作品を大須ホテルの便所に捨てたのは昭和2年のことだが、『探偵小説四十年』でそれが記されるのは昭和4年に入ってからである。
だから、昭和3年のくだりにいきなり、「便所へ捨てた一件」などと記されても、読者としては要領を得ない。
大須ホテルのことは昭和2年の章にくわしく説明されているから、乱歩はそこに便所の一件も記したものだと勘違いして、読者に想起を促すような記述をうっかり採用してしまったのではないかと判断される。
ほかにも、へんてこなことがある。
そっちのほうが、よっぽどへんてこだ。
ますますへんてこだ
甲賀三郎が「先頃ちょっと復活を思わせたが、結局は駄目であった」と書いたところを、乱歩はやはり勘違いしている。
つまり、「ちょっと復活を思わせた」というのは、ふたたび小説を書く気になって作品を仕上げたことであり、「結局は駄目であった」というのはその原稿を便所に捨てたことであった、と乱歩は理解しているのだが、そんなばかなことはないだろう。
たかだか原稿を書いたり、それを便所に捨てたりしたことが、どうして復活への挑戦とその挫折、みたいな文脈で語られなければならないのか。
そもそも、例の便所の一件を、横溝正史が甲賀三郎に打ち明けていたのかどうか、おおいに疑わしい、というか、そんなことを打ち明けていたとはとても思えない。
それ以前に、甲賀三郎はあくまでも、復活うんぬんという乱歩の動向を、当時の探偵小説読者に共有された情報として示しながら、乱歩に言及していたはずである。
たとえ横溝正史から大須ホテルのエピソードを聞かされていたとしても、そんなものはあくまでも業界の裏話であって、周知の事実として探偵小説の読者に共有されていたわけではない。
だったら、甲賀三郎の記述の根拠はなんだったのか。
おそらく、昭和2年3月以来の沈黙を破り、乱歩が「新青年」の昭和3年新年号に「あ・てる・てえる・ふいるむ」を発表したことだと思われる。
これが横溝正史による代作であることは、のちに正史と乱歩それぞれによって証言されることになるが、「探偵小説はどうなったか」が執筆された時点では、乱歩の作品とみなされていたと考えるべきであろうし、しかもそれは、たいした出来ではなかった。
「新青年」の新年号を手にとって、お、乱歩復活か、と喜び勇んで「あ・てる・てえる・ふいるむ」に眼を通したものの、だめだこりゃ、と落胆し、そのあとふたたび沈黙してしまった乱歩に、やっぱだめだなこりゃ、とさらに失望を重ねざるをえなかった甲賀三郎自身の体験が、読者にも共有されたはずのものとして、「先頃ちょっと復活を思わせたが、結局は駄目であった」という文章の背後に横たわっているとみるべきではないか。
しかし乱歩は、原稿を書いて捨てたというきわめてパーソナルな体験を、知人や読者に共有されたものと勘違いしてしまっていたとおぼしい。
どことなく自我肥大を連想させぬでもないこうした勘違いは、しかし乱歩の場合、けっして珍しいものではないように思える。
やっぱりおかしい
朝日新聞出版から、こういうのが出た。
▼朝日新聞出版:週刊 マンガ世界の偉人 26号
漫画は、みずはらけんじさん。
時代は、昭和2年から3年かけて。
小酒井不木や横溝正史を配して、大須ホテルの便所のエピソードもぬかりなく盛りこみ、おいたちやデビュー以前の回想もまじえながら、休筆を終えて「陰獣」で華々しいカムバックを飾る乱歩の姿が、美しいカラーで描き出されている。
しかし、やっぱ、おかしいな、と思う。
乱歩は「陰獣」を「改造」に発表するつもりだった、ということはこの漫画でもふれられていて、それはまさしく周知の事実ではあるんだけど、カムバック作品を「改造」に書いていた、と知らされて、横溝正史がどんな気分を味わったか、ということに、昭和3年から現代にいたるまで、だれひとりとして思いをいたそうとしなかった、っつーのは、やはり、とても、不可解なことではないのか、とあらためて思った。
つまり、乱歩が自伝や随筆に書いてることをそのまま鵜呑みにして、正史の心中を忖度しようなんて考えてもみなかった、というのでは、なんというか、少なくとも探偵小説の読者としては欠格者ではないのか、という気がしないでもない、と最近、思えてきた。
やっぱ、おかしいじゃろ。
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