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Nabari Ningaikyo Blog
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Posted by 中 相作 - 2017.04.09,Sun

 なんかもう、納屋と書斎の整理に端を発して、いまや生きてるうちに遺品の整理をしてるみたいな感じになってきました。

 きょうもきょうとてあっちこっち処分しまくりの日曜ですが、こんなことやってるあいだにぽっくり逝ってしまうのではないかという気もいたします。

 続篇です。

 後篇の前に中篇を入れることにしました。

 2017年3月28日:検閲と名張 前篇

 JPG画像でご紹介した「日本近代文学」第八十三集の203ページに、こんなくだりがありました。

 カードは回議(稟議)用紙を兼ね、さらに主査、事務官、図書課長に回されている。主査は「次版削除意見」と記し、事務官の高橋貢(?~一九九三)は了承の認印を押している。しかし図書課長生悦住求馬いけずみもとめ書記官(一九〇〇~一九九三)は理由を示さずに単に「本版削除」と記している。配下の事務官による処分の専決化が進むなかで、異例の決断であったことが窺える。

 事務官レベルでは比較的軽い「次版削除」、つまり昭和13年7月15日に出版された春陽堂文庫の『鏡地獄』が増刷されたらそのときは「芋虫」を全篇削除しなくちゃいけませんよと警告するという処分だったのですが、図書課長だった生悦住求馬の鶴の一声で「本版削除」、すなわち出版からすでに半年が経過していた昭和14年3月30日に決裁が下りて『鏡地獄』は差し押さえということになりました。

 水沢不二夫さんによれば『鏡地獄』は五千部発行され、全国の差し押さえ数はわずかに三十一部だったといいます。

 生悦住がなぜこうした強硬な処断に出たのかは不明ですが、「芋虫」の削除が生悦住の決断によることは間違いありません。

 ついでですから204ページ。


 「処分が彼の決断である事実は動かない」に附された後註がこれです。

(11)なお一九三五年九月にドレスデンで始ったナチによるプレ・頽廃芸術展を見ている可能性があるこの内務官僚については別稿を予定している。

 「別稿」とあるのは、平成25・2013年3月発行の「湘南文学」四十七号に発表された「検閲官生悦住求馬小伝」。

 『検閲と発禁 近代日本の言論統制』では、「佐藤春夫『律義者』、江戸川乱歩『芋虫』の検閲」につづいて収録されています。

 一読した私はたいそうびっくりいたしました。

 ここまでびっくりしたのは、「御冗談」は旧仮名遣いでも「ごじゃうだん」ではなくて「ごじょうだん」だと知ったとき以来のことではないかと思われます。

 とりあえず、「検閲官生悦住求馬小伝」の冒頭をお読みいただきましょう。

 生悦住求馬(いけずみ・もとめ、一八九〇─一九九三)は戦前・戦中に延べ約一〇年にわたり内務省の検閲の現場にいた官僚である。本稿では稀少な自伝『思ひ出之記』[1]や官庁資料等により、検閲官[2]としての伝記を試みる。帝国の検閲がどのような人物、磁場において行われたのかを明らかにしてみたい。

   一 生悦住の出自

 生悦住一族の名は一六世紀末の天正伊賀の乱を描いた『伊乱記』に伊賀地侍衆として登場する[3]。一族の本貫地は生悦住保跡[44]がある伊賀の夏見(現、三重県名張市)と思われる。江戸時代を土豪、下士として半農の身分で過したようだが、幕末には寺子屋も創設している。近くでは旧藩主藤堂家家臣の家に江戸川乱歩が生まれていた。
 

[1]奥付はないが、「はしがき」末に「昭和六十二年五月」とある。確認できる所蔵は京都大学、放送大学、横浜市立図書館のみ。国会図書館への納本もない。
[2]本稿では官制上の「検閲官」ではなく、広義の「検閲官」の意で用いる。
[3]著者未詳、百地織之助増訂『伊乱記』巻七、摘翠書院、一八九七年(明治三〇)、二頁。
[4]文化庁全国遺跡地図番号一〇ノ二七六。


 あーびっくりした。

 後篇につづきます。
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